迷った時の道しるべ
サクサクとスムーズに、流れるように進んでいたはずが、何故だか突然にその流れが止まるように、迷い、悩み、立ち止まってしまう。
こんな時、決まって「どちらが正解か?」というトラップに捕まっている。
答えは、どちらも正解ではあるし、どちらも正解ではないのだが、そこに捕まるとどうしてもそれも思い出せなくなる。
思い出すべきことは、常に「今」選んでいる「それ」が正解だ。
立ち止まり、悩み、迷うということは、その時点では選択肢の中に正解はない。
あるのは、今選んでいるもの。
止まる。
悩む。
迷う。
考える。
それが今出している答えなのだ。
つまり、「どちらも選ばない」という第三の選択が、今の正解なのだ。
自分の選んだものは全てが正解なのだ。
選べないのなら、今は決めないのが正解だ。
その選択肢が何択であろうと、選んでしまったらそれが正解となる。
「そんなことはない」
「二択のどちらかがハズレなんだから、正解はどちらか一方にしかない」
果たして本当にそうだろうか?
そこにあるのは、二択への迷いではなく、どうしても当たりを選びたい、ハズレを引きたくない。
引いてハズレだったら嫌だ。
けど引かないと当てられないし。
迷っているのはその選択であって、二択への迷いではない。
選ぶか選ばないか、で迷っているだけだ。
そんな時は、選ばない、その選択から離脱する、降りて別の道へ行くのが正解だ。
そこには、自分の本来の目的が何なのか?ということが眠っている。
どちらが当たりでどちらがハズレなのか知ることが目的なら、選んでしまえばいい。
二択であれば、どちらか一方を引けば正解はわかる。
目的が、どうしてもその当たりをその選択から引きたいのであれば、超能力でも身に付けない限りは無理な話だ。
それこそ、どれだけ考えたところでわかるわけがない。
迷うこと、悩むこと、考えこむようなことは、放り投げて他のことをやっほうがいい。
そうしているうちに、選ぶ勇気が湧いてきたり、そのまま忘れてしまったりもする。
マクロで見ると、迷っている時というのは、別の選択肢もあることに気付けていないということだ。
視野が狭くなるとはこのことだ。
選択で悩んだら、一旦そこから離れてみるといい。
別の角度から、上から下から、左から右から。
中から、空から、宇宙から。
色んな視点で見てみるといい。
何かが見えてくるかもしれないし、何も見えずにどうでもよくなるかもしれない。
いずれにしても、離れることによって、その悩んでいるポジションからは脱出できる。
高いところから見ると、大抵のことは、どっちでもいいし、どうでもいいし、大して変わりのないことだったりする。
たた、そこにいるのは失敗をしたくないと臆している自分がいるだけだ。
山の頂きで雨が降り、その水は集まって川となる。
川は重力に任せて、高いところから低いところへと下りていく。
大きな岩や石ころにぶつかりながら、凸凹した坂を下っていく。
気が付いたら、その凸凹や岩を堺に、流れは2つに分かれ、また分かれ、幾重にも分かれていく。
よく見ると、分かれた後に合流したりもしている。
大きな川の流れになっても、分かれてはまたひとつになり、再び分かれてを繰り返す。
色んなところを通るけど、どの川も水も、ただ宇宙の原理原則に従い、重力によって下っているだけだ。
右へ行こうが左へ行こうが、とにかく下るだけ。
そのどれも、行き着く場所は同じだ。
川は、水はただ、高いところから低いところへ、海へと流れている。
それだけだ。
迷う必要などないし、考えても意味はないのだ。
答えは決まっているし、行く先は同じだ。
選ぼうが選ぶまいが、それも同じだ。
考えていたいのなら、ずっと考えていればいい。
そのうちお腹が空くか、眠くなってくるだろう。
結局は、それか答えだということだ。
迷った時の道しるべは外側にはない。
全て自分の中に答えはある。