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亀倉雄策 デザインの力で日本をブランド化した男

今も語り継がれる東京オリンピックのシンボルの凄さ

戦後日本のグラフィックデザインにおけるパイオニアであり、
82歳でこの世を去るまで
世界の第一線で活躍し続けた亀倉雄策。

1964年東京オリンピックのシンボルマークとポスターは、
彼のあまりにも有名すぎる代表作である。

真っ赤な丸印に金の輪とタイポグラフィを組み合わせた、
シンプルながら、見る者を惹きつける力強いデザイン。

日の丸や太陽を連想させる赤い円は、
戦後の荒廃から立ち直り、
高度経済成長で活気付く日本を
これ以上ないほど的確に表現していた。
 

シンボルマークの制作にあたっては、
亀倉を始め永井一成、河野鷹思、田中一光、杉浦康平、稲垣行一郎といった
グラフィックデザインのトップランナーたちがコンペに参加した。

しかし、一流のデザイナーたちによる提案が集ったにもかかわらず、
審査員たちは亀倉のデザインを一目見て衝撃を受け、
亀倉案に即決したという逸話も残っている。

それだけ、亀倉のシンボルマークは完璧で、圧倒的だったのである。

デザインの力で国民の意識をオリンピックへと仕向けた

このシンボルマークを中心に置いた公式ポスターを1961年に発表すると、
陸上競技のスタートの瞬間を捉えた第2号ポスター(1962年)
水泳競技のダイナミズムを表した第3号ポスター(1963年)
聖火ランナーを写した第4号ポスター(1964年)と、
臨場感あふれる写真を大胆に用いたポスターを次々と生み出す。

その中でも特に、陸上選手の緊張感や躍動感を捉えた
第2号ポスターのインパクトは凄まじいものがあり、
世界中から称賛を浴びることになる。

日本国内でもあらゆる繁華街や公共の建物、
交通機関などにポスターが貼られ、
まだ他人事のようだった「東京オリンピック」が
一気に現実味のものとなった。
 

亀倉のデザインは、
オリンピックというブランドへの期待感を醸成し、
日本国民の意識を一気にオリンピックへと向かわせたのだ。

デザインの力で、日本ブランドを世界に知らしめた

当時の日本では、まだデザイナーという職業は広く浸透しておらず、
「図案家」という古臭いイメージで語られることが多かった。

しかし、亀倉の仕事によって
デザインに関心のない一般の人々の心にも深く刻まれ、
グラフィックデザイナーの認知度は一気に高まったという。

それだけではない。
彼の作品は、世界の人々が日本に対して抱いていた
「戦争に負けた貧しい国」というイメージを塗り替えた。

ー日本は復興し、凄まじいスピードで成長を遂げている。

力強いシンボルマークと、躍動感に満ちたポスターは、
日本の今を想起させるのに充分すぎるほどの力を持っていた。

彼はまさしくデザインの力によって、
日本というブランドを世界に知らしめたのである。 
 

ちなみに、ポスターを1年ごとに発表したのは、
国民のオリンピックへの関心を徐々に掻き立てていこう
という、亀倉自身のアイデアによるものだったそうだ。

彼は最高のグラフィックデザイナーであると同時に、
優れた戦略家でもあったのだ。

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