帝国主義によるアフガン侵略とタリバンの歴史
(年表参考:アフガニスタン - Wikipedia)
(テキスト引用元:月刊『コミューン』 12月号 特集 侵略と戦乱のアフガニスタン)
■前史
1838-1842 第一次アフガン戦争(アフガニスタン首長国が英に勝利)
1878-1880 第二次アフガン戦争(アフガニスタン首長国が英に敗北、保護国に)
1919 第三次アフガン戦争(アマーヌッラー・ハーンが英に勝利し、独立)
1926 国名を「アフガニスタン王国」に変更
→ 世俗主義改革と保守派の蜂起
1931 国王ナーディル・シャーが新憲法制定、
スンナ派ハナフィー学派を国教に定める
1933 シーア派がナーディル・シャーを暗殺、
同日に息子のザーヒル・シャーが即位
1939-1945 WW IIに際し終始、中立国として振る舞う
1952- パキスタンによるアフガン併合の動きに対し、
「パシュトゥーニスタン独立運動」を起こして牽制
1973 ダーウードがクーデター、アフガニスタン共和国を建国
→ 近代化を目指してソ連に接近、イスラム主義者を弾圧
1978 社会主義の人民民主党がクーデター、アフガニスタン民主共和国に改名
1978-1989 ムスリム民兵が蜂起、アフガニスタン紛争
■ソ連の侵攻
1979 ソ連が軍事侵攻を開始、
国家保安委員会を使ってアフガン議長の首をすげ替える
1987 ナジーブッラーが大統領に就任、国名を再び「アフガニスタン共和国」へ
1988 ソ連軍の撤退と国連アフガン・パキスタン仲介ミッションの設置が協定
ソ連のアフガニスタン侵攻は、当時の米帝による中ソ分断、NATO核戦力の飛躍的強化、アフガニスタンのイスラム勢力への支援などの対スターリン主義対決・帝国主義間争闘戦激化政策と、ソ連スターリン主義自身の根本矛盾の激化、国内のムスリム諸民族支配政策の破綻などによって、ソ連が追いつめられた結果であった。
また79年2月のイラン革命とその後の米・イラン間の緊張激化のなかで、米帝がイラン革命の絞殺と中東の武力制圧に本格的に乗り出したことが、ソ連を決定的に追いつめ、アフガニスタン危機への激甚な反応を引き出したのだ。米帝の世界軍事戦略の展開がソ連スターリン主義の反人民的対抗行動を引き起こしたのだ。
米帝の戦後アフガニスタン政策は常に対ソ連政策として立案され、ソ連崩壊後は旧ソ連圏の中央アジア諸国の再分割戦の観点から立案されてきた。アフガニスタンは石油資源が少ないため、戦後の米帝の世界戦略的関心はアフガニスタンの石油などの資源や市場の獲得にはなく、中東への進出と海洋への出口を求めるソ連の南下政策を阻止することにあった。
■タリバン政権の成立
1989-2001 ソ連軍撤退後の国内支配をめぐるアフガニスタン紛争
1992 ナジーブッラー政権崩壊、アフガニスタン・イスラム国が成立
1994- タリバンがパキスタン北西辺境州から勢力を拡大
1996 タリバンがアフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言
→ アフガン・イスラム国政府とムスリム民兵の一部が
反タリバンの北部同盟を結ぶ
同 スーダンから追放されたアル・カイダがタリバンと接近
1998 タリバンがアフガン全土の9割を掌握
ソ連軍侵攻以来の戦争と内戦で150万人以上が死亡し、国土が荒廃するなかで、アフガニスタン人民は果てしない内戦を繰り広げるだけで、人民の生活の安定について配慮する余裕のないイスラム急進派に対する不信の念を強めた。
こうした状況下で94年ごろ、パキスタンの難民キャンプの難民や数百のイスラム神学校の生徒を集めてタリバンが創設され、アフガニスタンに進出した。
当初のタリバンは、アフガニスタンの同じパシュトゥン人地域に進出したということもあって、アフガニスタンにおける軍閥勢力の不正や横暴をただし、人民に対して規律正しい部隊として登場した。内戦で疲弊しきった人民はタリバンが平和を回復してくれることを期待した。パシュトゥン人住民の支持を受けたタリバンは急速に勢力を拡大し、アフガニスタン南部を制圧した。
米帝やパキスタンの介入と援助は、タリバンを政治的に利用するためのものであった。タリバンはこれを受け入れることによって次第に変質していく。イスラム法よりも農山村における部族的伝統やパシュトゥン人の慣習法を重視し、それと混合した独自の厳格なイスラム法解釈を行動原理とするタリバンが、圧倒的な武装力を背景に都市住民や他宗派、他民族に対してそれを強要するようになると、激しい反発が起きた。タリバンがそれを武力によって抑えこみ、他民族・他宗派の虐殺を行ったために内戦はむしろさらに激化するのである。
■米帝のタリバン支援とその破綻
米帝はなぜタリバンを支援したか。それはカスピ海地域と中央アジアにおける帝国主義間の争闘戦に勝利し、石油・天然ガスの生産と輸送を米帝が独占しようとする戦略に基づくものである。また、それは中央アジアの旧ソ連圏諸国の再分割をも射程に入れた戦略に基づくものでもある。
米帝にとって最大の問題は、ロシアが石油・ガス搬出のためのパイプラインを唯一保持していたことであった。パイプラインの独占は、産出国の支配のための決定的武器になる。搬出手段がなければ産出された石油を輸出することができないからだ。カスピ海諸国をロシアにつなぎ止める役割を果たしているパイプライン以外の搬出ルートの建設が米帝にとって焦眉の課題となった。
98年8月のケニア、タンザニアのアメリカ大使館を標的とするオサマ・ビン・ラディンらの「国際イスラム戦線」による反米ゲリラを契機として、米帝がスーダンとアフガニスタンを攻撃したことからこのパイプライン建設計画はついに中止になってしまうのである。米帝のタリバンへの援助もパキスタン、サウジを通じた間接的なものを除いてこの時点で中止された。
91年1・17イラク・中東侵略戦争とイスラエルによるパレスチナ人虐殺にたいする怒りが米帝の思惑を越えてタリバンと共同歩調をとっていたビン・ラディンらの組織に大きな影響をあたえ、反米ゲリラが爆発するなかで、この計画自体が粉砕されてしまったのだ。
■帝国主義諸国との対立、タリバン政権崩壊
1999, 2000 国連、タリバン支配地域に対する経済制裁を決議
2001 タリバン、バーミヤンの石仏を爆破
→ サウジアラビア、タリバンと断交
2001.9.11 米同時多発テロ
2001.10 NATOがタリバンに対し自衛権の発動を宣言、空爆を開始
→ 北部同盟が地上戦を開始、アフガニスタン紛争
2001.11 タリバン政権崩壊
米帝の資源戦略に基づくタリバン支援政策こそ、アフガニスタン内戦を激化させ、アフガニスタン人民を塗炭の苦しみにおいこんだ最大の原因なのだ。その米帝が今日タリバンを「テロ支援勢力」として非難し、再びアフガニスタンに侵略戦争を仕掛け、アフガニスタン人民をさらに悲惨な状態に追い込もうとしていることをわれわれは絶対に許してはならない。
米帝の戦争目的は、「テロへの報復とその根絶」を口実としてアフガニスタンに対する「長期にわたる大規模な包括的・計画的な軍事行動」(ブッシュ発言)の発動という侵略戦争を仕掛け、それを通じて中央アジアとカスピ海周辺諸国の勢力圏分割=石油・天然ガス資源争奪をめぐる帝国主義間相互の、そしてロシア、中国を巻き込んだ強盗戦争に勝利することである。
帝国主義国における反戦運動も、9・11直後からかつてない規模で広がりをみせ、アメリカ、西欧諸国で大規模なデモが繰り広げられている。とりわけアメリカ人民の反戦運動は、9・11のイスラム諸国の被抑圧人民による帝国主義国人民の糾弾の闘いを真剣に受け止め、米帝の侵略戦争を弾劾する闘いに決起していることは極めて重大な意味を持っている。
われわれ日本のプロレタリアート人民は、こうした国際反戦闘争の高揚局面において、その最先頭に立って決起する決意を固めなければならない。
日帝こそ、米軍攻撃部隊の軸をなす第7艦隊の基地が存在し、特殊部隊の訓練基地を有する国であり、沖縄を始めとする在日米軍基地の防衛に武装した自衛隊を出動させている最前線国家である。
この侵略戦争への本格的参戦を通じて戦争国家化を一挙に実現するために、憲法改悪に等しいテロ対策法案や自衛隊法改悪案を強権的に推進している小泉政権を打倒する巨大な反戦闘争を今こそ大爆発させ、闘うアフガニスタン、イスラム諸国人民、朝鮮・中国、アジア人民との真の連帯を勝ち取らなければならない。
■新共和国
2001.12 アフガニスタン暫定政権が成立、カルザイが首相に
2002.6 カルザイが国家元首に当選、
国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に
2002.7 米軍の誤爆により、市民約150人が死傷
2004 新憲法が発布、カルザイが大統領に就任
2006- タリバンの攻撃が増加
2009 米オバマ政権、3度にわたり増派
2010 国際治安支援部隊(ISAF)増員、激戦により死傷者が急増
→ ISAFからアフガン政府へ治安権限の移譲が決定
同 カルザイ大統領、タリバンとの和平を目指す高等和平協議会を発足
2011 米軍、ビン=ラディンを殺害
2014 第3回大統領選挙にて、ガニーが大統領に就任
2015.1 イスラム国が「ホサラン州」設置を宣言、アフガンで活動開始
2015.9 タリバンがアフガンのクンドゥーズを一時占拠
→ オバマ政権、米軍の完全撤退を断念
2017.5 独大使館近くで大規模テロ
→ トランプ政権、「対アフガン・南アジア戦略」を発表
2017.11 NATO、3000人の増派を決定
2018.6 タリバンと史上初の一時停戦(3日間)
2020.2 トランプ、駐留米軍の撤退でタリバンと合意
2021.4 バイデン、9月11日までの駐留米軍完全撤退を発表