究極のところわたしの為にしか生きれないってことに気づいちゃった話し
今日のお話しは
タイトルの通りです!
よろしければこのコラムからどうぞ^^
5月にはいって
なんとなくもう一度
自分はどんなことにしあわせと感じて
どんな1日が心地よくて
どんな人生だったら心から愛せるのだろう?って
考えなおしてみるきっかけが巡ってきました。
逆にいうと
自分はどんなことにしあわせを感じなくて
どんな1日が心地よくなくて
どんな人生だったら心から愛せないのだろう?
これも考えてみました。
その時にふと
思い出したのです。
2015年に書き留めていたblogのことを。
そのなかの何記事かを
まとめたblogがこちら💁🏽♀️
2015年とかに書いてたblogは
友達4人ぐらいにしか
教えてなくて
本当に自分日記のように書いてたから
すごく見返すとおもしろいし
今と言ってること変わらなくて
自分のことがなんだか愛おしくなります。
そのなかのこれ
これ
今読み返しても読んでて
わたしのなかでワクワクしてるのが
わかるのと同時にその光景が
この頃からちゃんと浮かぶんだよね
若干書いてることと今想うことは
変わってる部分もあります。
例えばキャリアウーマンにはなりたいと今は思わないなぁとか。笑
美味しい手作りご飯も
作る日もあれば作らない日もあっていいやん!とか。この頃どんな自分マイルールが自分の中に
あったのかわかるよね。笑
だけど
なんでもないほんまにちっぽけな
平凡な毎日を幸せだなって思える環境と
気持ちの余裕をもって生きていきたい。
ここが今とほんまに変わらないことなのです。
Little calm 乾琴音として
いろいろやらせてもらってるけれど
このいろいろは目的ではないんだってことに
気づかせてもらったのです。
究極のところを突き詰めると
わたしはわたしの為にしか生きられなくて
わたし基準のちいさな幸せをたっくさん感じて
これでもかってぐらい
全部の感情を味わって大歓び様で
生かせてもらうために
いろいろやらせてもらってるんだってことに
気づいたの。
そしたら ふっと肩の力が降りた気がして。
それでいいんだー!
順番が逆になってたんだー!って
我にかえったのです^^
わたしはただただ純粋に誰かの喜ぶ顔を見るのが好きなのです。本当にシンプル!
これに尽きる!
だけど
その誰かのなかにわたしを1番にいれてあげることを、いつも忘れてしまったり
置いてけぼりにしがちなのだけど
忘れないであげようと思う。
どんな時もまずは誰かではなく
わたしをちゃんと見続けてあげようと思う。
究極の究極わたしの為に生きることができて
はじめてだれかの為にも生きることが
本当の意味でできるのかな?って思っている。
少しずつ少しずつ
この言葉の意味を体感してきていている今
腹落ちできるまで毎日リマインドしながら
生きていこうと思ってる😊
あの2015年に書いてる夢日記に
少し加えて更新するのなら
海がいつもそばにあって
陽がたくさん入って小さな菜園があって
みんなと囲める食卓がある
果物の木も植えたいなぁ。
海からあがったらだいすきな朝ごはん食べるの
陽がはいる窓際で
こうやって言葉を紡ぎ続けたい
優しいコミュニティーの輪のなかで生きること
パン焼いたりお菓子焼いたり
暮らしと自分を丁寧に紡ぐこと
わたしひとりでも
十分楽しく笑ってしあわせに生きることが
できるようになったわたしの物語と
愛する人との物語が
心地よくあたたかく巡るように交われたら
おもろいんやろなぁ。
それぞれが自由に思うままに生きていくことを
尊重しあえてリスペクトしあえたら最高!
やっぱり車で気のむくままに旅ははずせないな♡
2015年より今
今よりいつか
なにも進んでないようにみえて
着実に自分の描きたい人生になっていて
いつもわたしは笑ってる
笑わせてもらってる
そんな自分の人生をとことん抱きしめて
もっともっともーっと愛して
生きていきたいなって今想います
ありがとう
ここまで運んできてくれたすべてのものに
わたしが喜ぶ生き方をしよう
気持ちよく
自分のペースで息をしつづけよう
ありがとうございます🥰