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これからの働き方。贅沢な暮らしとは。

水曜日、昇進がかかった面談に行ってきた。ふだんは在宅で仕事をしているが、本社へおもむき、役員の方と直接話をする貴重な機会。直属の上長からは、「まぁよっぽどのことがない限り確定だから、リラックスして行ってきて」と言われていたものの、「そのよっぽどのことが起きたらどうするんだ!」という気持ちが消えないわたしは、割と緊張しながらその日を迎えた。
結果的には、最初は緊張したけれど、やさしく対応していただいたこともあり、和やかに話は弾み終了。最終的な結果は来週伝える、とのことだったけれども、正直なところ、すでに気は抜け切っている。

面談後、家に帰ると大喜びでぐるぐる回る愛犬と、在宅で仕事をしていた夫が出迎えてくれた。
その日はちょうどアメリカの大統領選真っ只中で、テレビでは開票速報が流れており、夫はそれを見ながら練習したという”トランプダンス”も披露してくれた。(トランプダンス・・・わかるだろうか? 両手を握り顔あたりに掲げながら、左右にリズムを取るトランプさんお得意(?)のダンスだ。)
間の取り方や首の動き、表情もトランプ次期大統領そっくりで、帰宅早々わたしは大爆笑。その時点ですっかり気が抜けたのだった。

「どう? うまいでしょ。夕夏ちゃんが面談に行ってる間、練習してたんだよね」

笑うわたしを見て満足げに、そして若干どや顔気味に、夫はそう言っていた。




わたしは基本的に仕事が好きだ。誰かの役に立つことや、喜んでもらえることがすごく嬉しいし、自分の成長を実感する機会が多くて、そういった意味でも働くのが楽しい。
ただ、社会人になってからずっと順風満帆にきたわけではなく、転職歴も3回と、割と多いほうだと思う。
元々は出版系の業界にいたわたしが、今ではIT業界にいて、一度独立して個人事業主になったこともある。我ながら、いろいろとチャレンジをしてきた。
でも、複数の環境で働き、自分を含め色んなタイプの人たちを見てきて感じるのは、結局誰もに共通する幸せって、”時間にゆとりを持てること”なんだなということだった。
バリバリ働いてお金を稼いだって、遣う時間がなければ無意味だし、逆に時間が出来ても疲弊しきっていたら、結局何にもやる気が起きなくなる。
そのあたりのバランス感覚が崩れている(あるいは崩れざるを得ない)社会人って、想像以上に多い気がしている。

IT業界にいるといったけれども、今主軸として行っているのは各部署の業務効率化を行うこと。いちいち時間を割く必要のない事務作業や定例業務が、どこの会社でも意外に多くて、そこの運用を変えていくことをメインで担っているのだけれど、今回の面談の中でも役員の方が
「みんな本当に幸せに働けているのかな」
「仕事はあくまで人生の一部。仕事だけに費やすのが人生ではないはずなのに、そこが見えなくなっている人が多いように感じる」
というお話をされていた。

実は、わたしが業務効率化に取り組む想いもそこにある。
すべてに全力をかけるのは、現実問題難しい。だけどせっかく技術も発展している現代、そこまで時間をかけなくていいことはなるべく機械に任せて、集中して取り組むべきことにより焦点をあてるような、メリハリをつけた働き方が浸透してほしいと願ってきた。「働き方改革」なんて一時期もてはやされた言葉も、今ではすっかり聞かなくなってしまったけど、表面的なパフォーマンスで終わってほしくなかった。だからこそ、わたしは目の前の人の作業負担を減らすことから始めよう、という気持ちで、ここ数年間ずっと効率化に取り組んできたのである。
そういうわたしの仕事への想いが、今回会社の上層部の方と一致していることを知れて、それが一番うれしかった。

もしかしたら夫のトランプダンスも、仕事に追われ疲弊しきっていたら笑えなかったかもしれない。
犬と遊んだり、散歩にいく余裕もなかったら、愛犬はきっとわたしのことを信頼してはくれないだろうし、季節の移ろいも、住む町の魅力にも、きっと気づけずにいたことだろう。
そう考えると、「時間にゆとりが持てない」ことで失うものの多さを痛感する。




そういえば先日、とある有識者のYouTubeを見ていて、その人が「本当の贅沢」について話していた。

世の中、お金を払えば大抵のものは手に入る。だけど、心だけはお金で買うことができない。お金を払って「僕のことを好きになってください」と言ったって、それはお金が好かれているだけで、本当に僕を愛してくれるわけじゃない。お金を払っても得られないものが本当の贅沢。つまり、贅沢とは「愛されること」だと思う。
何もそれは人だけじゃない、犬や猫だって、こちらが時間をかけて愛情をかけることで、僕のことを愛してくれるようになる。それ以上に嬉しいことはない。

同時に、「愛されるためには、まず自分から愛さなくちゃいけない」ということも言っていた。
これは本当にその通りだと思う。誰だって自分を雑に扱ってきたり、そもそも無関心だったりする人を、愛そうなんて思わないはずだし、一緒に過ごす時間が少なければ、なかなか愛着だってわかない。
でもこの「愛」の難しいところは、自分の心が満たされている状態じゃないと与えられないということだ。結局はこれも、時間にゆとりを持ち、日々自分を振り返り、慈しむ習慣が必要であって、その土台がなければ誰かを健全に愛することは難しい。

大量消費社会というのは、何も物質的なものだけではない気がしている。
色んな人が自分の時間、自分の健康、自分のゆとりを消費させられながら暮らすことで、一部の人が莫大な利益を享受しているような、そんな闇をときどき感じることがあるのだ。
その流れの中で生きていて、違和感がなければそれでいいとは思うのだけれども、もし違和感を感じることがあれば、流れに飲まれるだけではなく、ちょっと立ち止まって、自分が今立っている場所、置かれている状況に、目を向けてみる必要があると思う。

なんだか、仕事の話からとてつもなく壮大な話にまで広がってしまったが、要するに今目の前にあることに目を向けて、地に足をつけて日々を過ごす。わたしはその心地よさが好きだ、という話である。
別に大したことではない。自分に出来ることは少ないけれど、少ないながらも出来ることをする。
そういう、小さくまとまった生活の中から、時間と、そして心の余裕が徐々にできていくように感じている。
こうして週末の午前中に、のんびりnoteに向き合っている時間も、なんてことはない日常であり、同時にかげがえのない贅沢な時間なのだ。

別の日の写真。夫の帰宅を熱烈歓迎❤️‍🔥
なんで犬って嬉しい時ぐるぐる回るんだろ。笑

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夕夏
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