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去る者日々に疎し 手放した仕事も然り

 僕が前年度に手掛けていたプロジェクトが、昨日、目標としていた着地点に至り、利害が異なる組織に属しながら、一緒に走り続けてきたチームが解散することになったようです。週明けにはメンバーで集い慰労会が開催されるようで、僕もOBとして特別にお呼ばれしています。

 プロジェクトが水面下にあったころから関わり、途中で空中分解の危機に見舞われながらも何とか踏みとどまってチームをまとめ、プロジェクトチームを正式に立ち上げて1年間、方向性は一致していたものの、チーム内の温度差はあり、外部からプロジェクトを潰そうという圧力も当初は相当あって、内憂外患の嵐の中を、それこそずぶぬれになりながら走ってきたこともありました。

 今年の3月に離れるときは、毎日思い起こさない日はないぐらい、ある意味、愛してきたプロジェクトでしたので、重圧から解放されることの安堵感がある反面、本当に自分が抜けてうまくいくのかとも思いましたが、仕事は何とかなるものです。

 同時に、プロジェクトから離れて半年あまり、自分の中では手放した仕事に対する執着とか愛着は、思った以上に薄れており、プロジェクトが解散して、密着していた僕とその仕事との間を剥がしてみると、ペリペリと簡単にきれいに剥がれてしまう。

 いつの間にか感情が乾いており、自分の中でも関心が離れて、血の通わないところになっていたのだなと、感じた次第です。

 僕自身、なんやかんやいっても、基本的には飽きっぽいんですよね。何かを集中して極めはするんだけど、それを持続し続ける思いを持ち続けられない。極めてもそれをアップデートし続けるのって、そんなに目新しさは出てこないし、むしろ退屈になってしまう。

 もちろん、重箱の隅まで知り尽くすことで絶対的な優位に立つことができるものの、実務的な理解と運用はそこまでの知識を必要としておらず、自分の判断とか理解が、それによってかえって大勢と乖離してしまうと、結果的に役立たなくなってしまいます。

 人間関係も、離れてやりとりして、次第に薄くなって、そのうちお互いの間に引っ張られた糸は緩んで役に立たなくなります。去る者をいつまでも思い続けることは難しく、自分が去る者になれば、同じように人々の記憶から薄れ、消えてしまうでしょう。

 いつまでも人の記憶を占有しようとするのは、自分の寂しさの表れでもあり、そこはある地点で断腸の思いで見切りをつけないと、もろに無視されるか、面従腹背か、いずれにせよ双方にとって不幸な関係になってしまう気がします。

 人間関係や仕事に代表される、自分が一定の地位を占めたいと願うことに関しては、それこそ教祖にでもなって自分が常に辞書を書き換える全能性を持たない限り、時期が来れば次世代に明け渡し、観覧席に戻って一観客となって過ごす、こうした基本を忘れず、きれいに剥がれていきたいものです。

 


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