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高齢の母への希望提供

 毎週、平日の後半で時間休みを取り、母のところに行くことがデフォルトになりつつあります。

 だいたい、行く日の朝に電話すると大荒れ。ふだんは話し相手がいないからであり、それがあるから、役所からの電話による安否確認サービスとか、週3回の宅配弁当を手配したのですが、
それはそれで電話や宅配の人が来るのは煩わしい、宅配弁当は内容のわりに高い、ということで、どれも断ってしまい、結果が、「普段誰とも話すことがない」という不平不満ですから、困ったものです。

 ただ、電話の大荒れを過ぎて、これから行くというと、まずは来なくていい、誰とも会いたくないと拒否されますが、それでもと言えば、少し心を開いて、そこからは足らないものを聞いて、買い物リストをメモするようにします。

 で、実際に行くと、だいぶ落ち着いており、食事をともにして、そこで会話を重ねることで、朝の大荒れはうそのような穏やかな状態になり、しばらく話をして、落ち着いたところで、僕は任務終了です。

 基本的に、僕の役目は話し相手であり、母にとっての希望提供業です。何か画期的な現状の打開策なんてものはなく、母にとっての青い鳥は、その時々で変化し、何とか苦労して手に入れても、母に渡した瞬間に鳥は鮮やかな青さを失い、こんはなずでなかったとなる。

 何度かこうしたことを繰り返して、手中におさめられるような青い鳥はいない、ということはわかってきました。
当たり前ですが、自分の人生経験に照らしても、希求してやまないものが手に入っても、人は満足することはないわけで、これは自分の人生でも、繰り返してきたわけですから、わかってはいるのですが、そうしたものがあるように思えないと、僕自身も含めて、意欲を持って生きることができないのではないかと思います。

 若いころは、それでも多くの手札を持っている状態で、つまりは未来への可能性が多いので、色褪せぬ本当の青い鳥を手に入れることを思い描くこともできますが、人生ゲームを進めて、手札が減ってくると、現実を受け入れるようになりますが、それでも自分で切り開く気力体力があるうちは、まだまだいけると思えるものです。年齢にかかわらず、若さを失う人は、青い鳥の希求をやめた人だと思います。

 ただ、母のように高齢になると、いろんな力が落ちてきます。

 昨日も90代のかたで、かつては第一線で活躍していた人とお会いしたのですが、耳が遠くなり、耳から入る情報が少なくなっていることもあって、物事を理解する力はものすごく落ちていました。

 ただ、その人が第一線で活躍していたときに、使いこなしていた武器というのは、その使い方を覚えているものであって、その時の言葉の鋭さとか、瞬間的な頭の冴えだけは相変わらず、と感じました。

 その人に比べると、母は現状の物事に対する全般的な理解力は、まだまだ大したものですが、気力体力はいかんともしがたく、段取りもものすごく悪いので、頭の中が散らかっており、青い鳥はイメージだけで手に入れる道筋が組み立てられるはずもない。そこで僕の出番になります。

 僕は毎週行くとき、希望を抱くようなプランを考え、大小織り交ぜて提供します。それが母のほしい青い鳥となり、母の心の彷徨が止むとは思えないのですが、人生の旅路において、行く手に青い鳥があることは、何歳になっても必要。

 実際、僕の話の組み立てを、どの程度理解しているのか、半分わかればいいかなと思いつつ、大事なのは話の細かなところではなく、僕の希望提供をしようとする心であり、そこらへん、親子でわかっているけど、お互いさまで演じている、そういう面もあるのかなと思います。

 なんとも、取り留めない感じですが、人生、年の取り方って、本当に難しいなと思います。


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