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愚痴の嵐の中で心に静謐を保つ

   今日は母のフォローの日。
  毎週、母のもとを訪れることは、僕にとって「無言の行」のようなものです。

   初期の認知症で、ふだん人とのかかわりのほとんどない母との会話は、ほとんどが同じ話の繰り返しです。 

   しかも、その内容は大抵、現状への不満や過去への悔恨、誰かへの愚痴ばかりで、明るい話が出ることはほとんどありません。最初のうちは僕も心のスタミナがあり、何とか受け止めようとしますが、繰り返されると、さすがに心がすり減っていくのを感じます。

 母に悪気があるわけではないことは分かっています。母なりに、今の自分の世界の中で思いを表現し続けているのでしょう。
しかし、聞く側の僕にとっては、なかなかに負担の大きい時間です。

    会話の中には、当然ながら、記憶の欠落や見当違いがあり、しばしば「それは前にこう言っていたから現状がこのようになっているのではないかと」「過去の所業を忘れて他責にしても何も生まれないから、こう考えたほうが前向きになれるのではないか」と、少しでも建設的な意見を言おうと試みることがあります。
ですが、そうすると決まって「親の悪口を言うのか」と怒り出すのです。僕としては、母を否定するつもりなどまったくないのですが、母の耳にはそうは届かないようです。

 結局のところ、僕にできるのは、無言でやり過ごすことだけです。耐性はついてきたものの、貴重な休日をこの時間に費やすことには、どうしても忸怩たる思いがあります。
それでも、母の不満が爆発するのを防ぐためには、反論せず、ただ静かに話を聞くしかありません。まるで、嵐が過ぎ去るのをじっと待つかのように、ひたすら相槌を打ち続けます。

 訪問の前には、気持ちを落ち着けるために深呼吸をするようにしています。母の家に着いたら、あえてゆっくりとした動作を心がけます。母の話に適当に相槌を打ちながらも、心の奥では波風を立てないよう、自分自身を守る術を磨いています。これはもう、精神の修行のようなものです。

 僕は母のために訪れているつもりですが、それ以上に、自分がどこまで耐えられるのかを試されているようにも感じます。それでも、週に一度は母の顔を見に行きます。母の時間は確実に限られていて、どんなに大変でも、僕はこの時間を手放すことができません。だからこそ、無言の行を続けていきます。嵐が過ぎ去るのを、ただ待つために。



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