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大荒れの中を向かって鎮め自省する
昨日は1月3日ですが、夕方に人と会う予定があり、その前に母のところに顔を出しました。
大晦日と元旦に顔を出したばかりであり、気持ちは落ち着いているかと思いきや、電話をしてみると大荒れ、感情をコントロールできていない状況で、電話も途中で切られる荒れている時のお決まりのパターンです。
まあとにかく、大荒れの中でこそ嵐の中心に向かい、収めることが肝要をハラを決めて、昼食を買って最低限の装備で母のところに乗り込みました。
少し落ち着いてはおり、食事をともにすることで落ち着きましたが、その後に母の体内をめぐる負の感情と記憶の溢れ出たものを、まともに浴びました。
ある種、自分の子供の人生を付属物のように捉えている好き勝手な言動に対し、流石に反論したくなりましたが、やり過ぎても、母の方は記憶が都合よく改変され、抜け落ちており、母自身は自分の的確な記憶に基づく何の問題もない主張をしていると信じ切っているため、そこを押さえ込むのは無理。
やむなく適度に聞き流し、無用な疑心暗鬼はソフトに否定して、とにかく毒を体内から出すのに協力しました。
負の感情を吐き出せば、体内の嵐はおさまったようであり、役目を終えた潮時に、母のところを辞しました。
そもそも、昨日の時点で、一緒に年越しをしたことについて、明確に覚えていないし、冷蔵庫の中の買い物も、自分がそんなもの買ったのか、という感じ、いとこのことも記憶が混同しており、肉親の贔屓目に見ても、危うさを感じざるを得なくなっています。
明らかに直近のエピソード記憶の定着が悪く、過去のよき思い出については、心に定着しないらしく、すっかり抜け落ちている、今は悪い思い込み、疑心暗鬼になった過去のいざこざ、他人を羨む材料集めと自分の不幸を嘆くといった、どうあっても心が軽く明るくなることがないような思いが、心の内をへ巡っているようです。
今が一番苦しいかも知れないかも知れないという気がしましたが、一方で、ここを抜けて寂寥を穴埋めするが如く、負の感情を掻き立てる要素も抜け落ちてしまうと、人間としてエネルギーの向けどころも失い、一気に症状が進むのかも知れないとも感じました。
今は、色々忘れゆく自分の認知能力低下に対する恐れもあり、願望との乖離もあり、こうした混乱が起こることは、やむを得ないのかなとも思います。
いずれ、認知症が進めば、自分も忘れられていく。そうした先は見えているわけで、そこに至る前に、なるべく良き記憶を残していきたい。この状況で、他者を会わせることは、物がなくなることを人のせいにする傾向も強まっており、リスクは高いですが、場所と場面を慎重に設定し、本当に見当識がなくなる前に、皆で囲む場を設けたいところです。
人は誰しも、年寄れば、認知の低下、心身の機能の不調、病による苦痛などが単発もしくは複合的に襲ってきて、どうあっても生活の質は低下することになりますし、生きることイコール別れと失うことの連続です。
死に向かって削ぎ落とすことを、いかに受容し、限られた資源により人生を前向きに生きていくかは、元気なうちから考えておくことは必要であり、長生きをして社会の役割を外されていっても、自身の尊厳を守り生きていくことは、かなりの難事なわけですけど、それができるような未来への種まきをしておく、特効薬のごとき速やかな効能は期待できないため、こうした行動原理は、現在の資源配分の中で劣後されがちですが、この土日や休暇のタイミングで、常なるテーマとして、今年も考え続け、実践していくようにしたいと思います。