延べ棒より編み込む糸がほしい
僕は1月に10冊から20冊は本を読みます。
忙しいときでも、週末の早朝の時間を確保し、なるべくそこで集中して読むようにしています。また、1冊ずつ読むというより、何冊かの本を同時並行で読み進め、途中で脱落させる本もあり、読むジャンルも、その割合も、さまざまです。
週末だけ借りている、コワーキングスペースの近くにある、市立図書館の選本眼が優れており、そこの新刊コーナーで、選り好みせずに、何となく面白そうだなと思った本は一通り借りているほか、日々の生活の中で自分の前に飛び出してきた本については、市内のすべての図書館を検索し、取り寄せて読んでいます。最近は図書館の本も、駅に設置された返却ボックスに返すことができるようになり、とても便利になりました。
図書館で手に入らないような本は、ネットで探して中古で状態の良いものがあれば古本で購入しますし、品薄状態で値段的に変わらなければ、新刊を購入します。
歴史関係や小説のように、コンスタントに読んでいるジャンルもあれば、その時々の関心領域で、集中して読むジャンルもあります。
こうした一連の読書の中で、4月に入り、最近ベストセラーになっている学習法の本と、人生論の本を1冊ずつ読みました。
どちらも、内容としては至極まっとうなのですが、著者の考えが本の中を太く貫いており、丸ごとインストールしないと、自分の中に取り込めない感じなんですよね。
おそらく、社会人になりたてのころであれば、丸ごと取り込んで実践したかもしれませんが、今は自分なりの学びの手法とか、仕事のスタイルのようなものが編み込まれていて、この編み込みを補強し、あるいは古い糸を解いて新しい糸で紡ぐような、素材となるような本の方が、むしろ有用な感じがします。
人生論も然りで、ここまで生きてきて、全否定するような人生を歩んでいるわけではないため、本を読み進める中で、自分が今まで重きをおいてきた価値を補強する素材として、その本に散りばめられた力のある言葉を咀嚼し取り込み、それにより、自分の中にある仮設の足場を取り外す、そんなことを思い描きながら、この手の本と向き合っています。
金の延べ棒は、飾り物としてはありがたいのですが、その存在感ゆえ、丸ごと取り込むと僕の中に異物であり続けてしまいます。
延べ棒より、日々、少量でも良いので、自分を全肯定する物語を編むための金糸を、人や本とのご縁の中に見出し、手に入れていきたいと思います。
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