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火中の栗を拾ってくれた人を大事にする
かつて僕が困っていた時に、あえて火中の栗を拾って、手を差し伸べてくれた人が、諸事情により、多くの人に叩かれるような状況に陥り、今は四面楚歌の状況におかれています。
たしかに、今、四面楚歌に陥っているのは、その人に問題なしとはいえません。ただ、周囲が色眼鏡で見ていることで、実情以上にその人の所業が悪く受け取られており、火中の栗を拾った功績を忘れ去られている面があるのも事実。
過去の功績は、ともすれば忘れられがちであり、見知らぬ遠き場所でクライシスから世界を救った主人公が、
その功績の大きさにもかかわらず、そして古傷に苦しんでいるにもかかわらず、長旅から戻り、異質なものになって戻ってきたように思い、忌むべき存在のようにもみられてしまう、ファンタジーの主人公にも似たものがあります。
往時の功績を知る、数少ない生き残りである僕としては、過去を忘却したような周囲の冷たい見方とは一線を画し、あくまで過去の功績に照らし、苦境に陥った彼を擁護する役割を担いたいところです。
もちろん、余計な災厄を自分に呼び込まないためには、手のひら返しは大事な処世術ではありますが、自分にとって恩義や信義の残高が残っている相手であり、かつ、現状においていかに厳しい立場にあっても、
多数によるバッシングに理があるとは思えない場合には、立ち位置をひいてみて少なくともバッシングが収まるまでは、多数の側に与せず、出来る限り心理的、物理的にも陰ながら支援を行い、事態が鎮静化して、冷静な評価がなされる環境になるのを待つべきだと思います。
ただ、こうした振る舞いができるのは、独自の振る舞いをしても許される「力」あるいは「存在感」を僕自身が持っている場合であり、自分自身が弱いままでは、こうしたことは絵にかいた餅、一緒にバッシングにさらされて、沈められてしまうことになりかねない。
そういう意味では、今は一定の評価を確立し、独自の振る舞いにも一定の理があるものと黙認されるようになったからこそ、できることであり、やはり人生において、自分の信じるところを貫くにも、他者や組織に依存した価値ではない、自分固有の価値、力を持つことが大事であると、こうした事態に直面し、強く感じるところです。