感情の一時預かりの効能
昨日は母のところに行ってきました。
今回も、傾聴モードに徹しました。
実現困難な夢物語であっても、今さら水掛け論であり、言った言わないを主張しても仕方のないような昔話であっても、半ば被害妄想にもとづくような人の悪口であっても、他人の自慢話をまともに受けての自分の今の境遇を嘆くことについても、とにかく聞くことに徹して、可能な限り球を拾い、相槌を打つ、ただそこには、この先に何かを実現するかのような約束めいたことはしない、そういうスタンスを決めて、一緒の時間を過ごしました。
確かに、人生において、全てを肯定的に解釈して生きることができれば、精神衛生上は良いですし、周囲にも人が集まってきて、好循環が生まれるわけですが、現実には面白くないことや辛いことに日々直面しており、それらのことをすべて肯定的に解釈することは、それなりのエネルギーを費やすことになります。
常に自分の身に降りかかる事象を肯定的に解釈するには、まずは自分が機嫌よく生きられる周辺環境を整え、身の回りで起こる不機嫌ネタの数を減らしたうえでないと、かえって無理が祟って、メンタルのバランスをどこかで大きく崩してしまいます。
また、肯定的解釈の源となる、さまざまな先人の物語、良質な人生論、小説などを大量にストックしておくことが求められます。そうした「肯定的解釈の受け身の型」を持ってこそ、効率的に負の出来事を肯定の文脈に取り込むことができます。
そうしたストックをあまり持たず、肯定的解釈のトレーニングを積んでいない高齢の母に、それを求めても無理があるというものです。
かといって、他人である僕が、母の心の内にある感情をプラスに変えることは困難です。
ただ、傾聴には、そうした負の感情の「一時預かり」のような効果はあるように思います。一時預かりだから結局変わらないという考えもありますが、世の中の娯楽というものは、そこに没頭している間は、現実に直面する様々な面倒ごとを、一時預かりしてもらっているようなもので、そこには、確かに、現実の憂さ辛さから解放して、心に休息を取らせる効果はあるように思います。