残された記憶を大事に育てていく
初期の認知症である母は、今のところ、一人でも日常生活はこなせているものの、記憶の欠落はあちこちで起きているようです。昔のことでも、ぼんやりと覚えていて、固有名詞が出てこない程度こともあれば、前後のエピソードも含めて完全に欠落していることもあります。
昨日は、受け取った手紙のことを、前後の記憶とともに完全に欠落し、最近その手紙を受け取ったように思い込み、その内容が意味不明なので、相手に電話してやろうかと思っていたところ、僕が説明して、何とか踏みとどまった、ということもありました。
本人は、受け取った記憶の片鱗も持っていないため、呼び起こすこともできず、僕の言っていることが本当だろうかと今でも思っているでしょうが、手紙は消印があり、さらに郵便料金が昔の料金で、どうやっても届かないことを説明すると、事実の厚い壁に阻まれて、ようやく自我の主張を断念した、そういったところでしょうか。
この手紙のことは、相手のある話で、このまま電話をすると相手は困惑し、母がおかしいことが知れ渡ってしまうので(母はきょうだいにも認知症になったことは知られたくないようですので)、そこは事実を盾に止めましたが、ほかのことについては、なるべく記憶から欠落したことは深追いせず、記憶に残っていることを大事に育てて、会話に取り込むようにしています。
何より、記憶の完全な欠落に対しては、母自身が衝撃を受けているわけで、僕がそこを何やかやと言っても、傷口に塩を塗り付けるようなもので、母のプライドを無用に傷つけることになります。
一得一失という感じで、欠落した記憶を指摘すると同時に、覚えている記憶をしっかり受け止め、まだ自分は大丈夫であると自信を持たせることも、今のステージでは大事なことだと、思っています。
あとは、認知症になった原因や、こうした記憶の欠落について、もともと他責の傾向のあった母は、その思いが強くなっており、環境に原因を求めることしきりです。これも僕からすると、自己を正当化、美化して、周囲に責を押し付ける姿勢には、言いたいことがいっぱいありますが、これは受け流すようにしています。
ただ、すべてを他責にすることは、結果的に内なる毒を生み出してしまうことになるので、別に他人もみんなバラ色の人生じゃないよということは、気づかせて、少なくとも、自分だけが不幸の塊ではないということは、心に持ってもらうようにしています。
老いはやがて行く道であり、こうしたやり取りは手間でもありますが、自分の頭の中でのトレーニングににもなるし、人生の先達としての貴重な経験を得ているともいえます。