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中二的充実感の生徒会活動

 最初は全然違う話を。
 昨日は西村賢太の「苦役列車」を読み終えました。

 これ、社会の底辺で生きる、学歴も金も品位もない若い男が、日雇い労働さえ満足にできず、そこで出会う、自分より多くのものを持つ人間のことを羨み、毒を吐いて人を遠ざける、なんとも救いようがない生き様を書いた作品です。男の性欲って、誰もが人に隠して強いこだわりを持つ領域であり、そこを赤裸々に描いているあたりの、身もふたもない感も、半端ない背徳感を覚えます。

 体裁を捨てた私小説といった風情でしょうか。捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれの、芥川賞受賞作ではなかったかと思います。

 昨日はもう一つ、僕の中学の卒業アルバムを久しぶりに見返していました。実は2月に引っ越してきた現在の住まいは、中学校時代の学区では少し離れた地域であり、現在はこの地域だけ別な中学校がつくられ、学区が分かれていますが、当時は同級生にもこの辺の住所の人が何人もいます。

 この、住所と電話番号がもろ掲載されているのも、時代を感じますね。

 もう、家を出てしまっている人も多いでしょうし、親と同居しているにせよ、道ですれ違って気づくかはわかりませんが。

 この、中学校のアルバムでは部活動紹介のページがあり、その中で僕は、生徒会のところに載っています。選挙で選ばれたわけではない、自主的下働きの書記局員であり、何となく夜7時ぐらいまでは生徒会室にいないといけない雰囲気で、文化祭の時には輪転機を回してプログラムを作成したりと、なかなか大変であったことを覚えています。

 なぜ生徒会に入ったかといえば、部活をやめる口実にしたかったためなんですが、入ってみれば思った以上に拘束され、とにかく7時までは生徒会室の狭隘な空間にこもり、ヒラ書記の庶務業務と称してとりとめのない話をしている、部活動の正統派イメージとは別の、中二的な異空間を経験できました。

 特に、文化祭で夜遅くまで輪転機を回していることに、妙な社畜的充実感を見出したりして、どちらかといえば中学入るまで存在感のなかった僕が、自分なりの立ち位置を見出した、最初の場所であったように思います。

 こうしたお祭りの裏方的な役回りで夜の校舎の廊下を右へ左へと走ることで、デスクワークの達人キャゼルヌもかくやと思うような、自分の仕事ぶりをほめてあげたい精神作用が自信に化学変化し、成績は上昇カーブを描き、何とか公立上位校に合格できて、その後も自分の勉強→成績アップのロードマップ実現に、にある程度の既視感を持って臨めたので、今振り返るとヒラ書記の激務は、僕の人生において得難い経験であったと思います。

 部活なしっこの息子に薦めたいのですが、この中二的な魅力をどう伝えるかは、悩ましいところですね。

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