人として傍にいれているか
【備忘録的なので、後で推敲、再投稿する可能性あります】
先日、とあるツイートがとても心に刺さりました。
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不登校当時の私にとっては、全大人が敵でした。
どんなに優しく仲良くなろうとされても、近づいてくる目的が「登校」なら、シャットアウト。…
by ミコトon Twitterさん
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〜の専門家というのは世の中に沢山いる。
私も障害者就労支援とか、大人の発達障害者支援という点では専門家側だ。
一方で、かもみぃるのゆる茶話会などでは、「専門家の下」は引っ剥がして1人の人間、1人の発達障害当事者として参加している。
しかし、職場ではどうだろうか?
窓口の相談員として引きこもりの人に出会う時、大抵の家族や支援者はゆくゆくに就労を念頭に置いているので、どうしてもそれをちらつかせながら関わることになってしまいがち。
良くも悪くも、私は出会う人に愛着を感じやすいので、「いずれは働く支援を」「支援者としての一線は引いて」というの関係なく関われたらどんなに良いか…と思うことがあります。
でも、それでは「支援者としての機能」を果たせないので、気持ちを奮い立たせます。
しかし、それだけが本当に必要な関わりなのか、先のツイートを見ると考えさせられます。
支援の窓口、支援者としてはよくても、困っている大人や子ども達には、「現状をなんとかしなきゃ」と思っている人しか関わってないわけです。
「あなたと損得関係なく知り合いたいのよ」という人はいないというのは、とても息苦しいし、常に警戒心を持たなきゃならない状態ではないでしょうか。
そして、専門家として役割を背負ってしまうと、それ以外のアプローチは専門外になってしまう。
でも、本来の「人として傍にいる」ということ「専門性は関係ないように思います。
何気なく傍にいてくれる親や友人、ご近所さんのような存在が心の支えになることはあります。
私が中学生の頃は、親子喧嘩がうるさ過ぎて近所から交番に電話が行ったり、私が隣の家に逃げ込むとか、そんな荒々しい日々を過ごしていました。
具体的な支援はありませんでしたが、締め出された時に家に入れてくれる隣のお兄ちゃんとかおばさんの存在はとても大きかった。
18歳で家出をして以降、頼った専門機関は「その機関の立場でできる支援がない」という理由で私とは継続的に関わってはくれませんでした。
学校の先生達も気にかけてくれましたが、やはり中退しないように支えなければ的な視点はあったと思います。
自分に自信が持てず、拠り所がない私はもがきながらなんとか生活し、卒業しましたが、「ただただ人として一緒にいてくれる、楽しい時間を過ごしてくれる存在」というのがあったらどんなに良いかと思いました。
それがキッカケで支援の世界に入ったわけですが、「〜の役割を持つ下さん」という関わりの方が多くなっていらように思います。
仕事なので当然ではありますが、それだけでいいのか??と悶々とします。
かもみぃるで茶話会をしていく中で、「支援者として求められた時に支援者になればいいだけで、今は人として一緒にいる」ということを意識するようにはなりました。
その背景には、知人の紹介で繋がった人達の影響がかなりあります。
制度上の支援や治療ではないけれど、結果的には良い効果がでる。「最初から登校や就職が目的ではない」というのは結構な冒険です。
先行きの見えなさは家族も焦るし支援者も見通しが持てないから不安。(でもこれって本人抜きになってますよね?)
そこに耐えるというよりは、ともに楽しむことを模索する中で結果的に不確実性を許容して、結果的に困っていた子どもや家族が癒される、何かしてみようと思える。
これってものすごいことなんです。
この原理を都合よく使う方法もあるので、全肯定はしませんし、使い方に気をつけなければいけないとは思います。リスクも理解して、時に選択肢も提示する責任は大人や周囲の人にあります。
(夢だけを見せるのは嫌われないようにというエゴだと私は思うので)
今の制度やサービスを考えると、登校する、一人暮らし、働く、退院するといった目的のために作られてます。
予算や税金の投入を考えたらこれはある程度仕方ない。
そして、対象者も限られる。
でも制度以外にもやれることはあります。むしろ制度頼りでは限界があって当然だと思います。
地域で子どもを育てるとか、地域づくりとかいうけれど、それって「みんなで楽しめる、に自分も心から参加できているか」なのかもしれません。
専門性とかではなく、今困っているかどうかではなく、人が人と一緒に楽しく過ごすっていうこと。
将来を担う子どもが、敵ではない大人に接したり、楽しい経験や安心して失敗する機会を持てる。
親が安心感をくれなくても、代わりに誰かが何かが安心感の源になれる、そういうことが大切なのかな…
まとまりませんが、
仕事とは別で活動をする意味、さらに活動とは別の自分にとっての場所、人、そういうものを何となくてはなく、一つ一つ大切にしていきたいと思う今日この頃です。