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月夜のルックバック
映画を観たあと少しのあいだ、動き出し難いのはなんでなんだろう。
週はじめ月曜の夜にルックバックを観にいった。ネットをながめたところ、3日前程に公開されたみたいだ。みんな(最近の日本における漫画やサブカルチャー好きのほとんどの人は)ルックバックがどんな映画かはもう知っているに違いない。原作者の藤本タツキはチェンソーマンでその名を世界にまで轟かせている。私の周りでも少年漫画好きは大体チェンソーマンを手に取ったことがあった。そして美術学生時代の私も漏れなく有名作品には手を伸ばす腐れサブカル人間だった。
その元腐れサブカル美術学生は今やただの概念的社会人の1人。社会人は何故月曜、即ち平日のド頭に映画館最後部列ど真ん中へ腰を据えていたか。社会人の生活って、社会人って結構学生時代に頭の中に描いてたままなんだ。まだまだ"ちゃんとした大人"一年目の私はそんなことに今更じわじわと気づきはじめた。朝、会社へ行くために起きる。昼夕方少しの夜、会社になる。夜、明日会社へ行くために早く寝る。今日の肩こりを取るためにストレッチを満足にする時間があればなお素敵な平日だ。学生時代と比べると自分とおしゃべりする時間の長短は雲泥の差だった。不満の根源を考えたり、星の在処を空想したり、心を友達のありがたさに浸す時間も全然少なくなっていた。美術学生はそれが一番大切な事みたいなとこあるし、社会人にその時間があんまりないのは普通に当たり前のことだった。
そんでもって、普通に今の自分の生き方に焦りをおぼえていたから、見えたり見えなかったりするなにかに何かに背中を押されて制作に夢中になってた私の中の時間をとどめるために映画館にいった。高校卒業時、大学卒業時、私はいつもその場所の思い出を忘れたくなくて必死だ。
そういう気持ちで見てたから、ルックバック観てるときずっと心がもぞもぞしてた。2人が初めて賞取って雪の降る中コンビニで声を上げて喜んでた時も、どこかに2人で出かけて笑ってた声も作中のわきあがる嬉しいを表す声はほぼ聞こえなかったと思う。映像と、最ッ高という気持ちを表現する音楽だけの場面が多かった。
全然多分絶対話の本筋じゃないけど、この嬉しさとか心の底からぐわぐわする心地が欲しいならまた必死で作品つくってみろって言われてるみたいだった。元美術高校生で、元美大生の現在会社員の私の中をこの映画は清々しく殴り通っていった。
私は、明日のためにそろそろ寝ないといけない。休日でもないのに映画見にいっちゃったし大急ぎでお風呂で清潔にならなければいけない。