【読書感想文】『フェイクドキュメンタリーの時代』を読んだ感想と、それから敷衍して、ある方の記事を通じて考えたこと。
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先日、ネットである本が刊行されたことを知った。フェイクドキュメンタリー、つまりモキュメンタリーの本だとタイトルで分かり、以前から「好きなジャンル」であったため、読んでみたいと即座に思ったのだが、そのときは電車の中だったので、スマホをそっと閉じた。
別日、近所の本屋に散歩がてら立ち寄り、新書の棚に行くと、新刊の新書をピックアップして陳列しており、目を止めた。これがネットで見た例のアレかと手にとり、思わず買ってしまった。それが、この戸部田誠(テレビのちから)著『フェイクドキュメンタリーの時代 テレビの愉快犯たち』である。テレビ文化史に強い興味があるわけではないが、このジャンルくらいしか興味を持ってテレビを見ない私にとっては、このジャンルに特化した本というのはとても興味深く思えた。
「知らない真実を語る」ドキュメンタリーが好き。
元々ドキュメンタリーが好きなのだ。本屋に入り即座に向かった先が新書コーナーであったということからして、「知らない真実を語っている本」が好きなのである。フィクションの小説も「仕事上」読まないことはないが、レジャーの「読書」としてはその割合は余り多くないように思う。
今まで読んできたドキュメンタリーやルポの本の中で、面白かったなとここで即座に挙がるものは、春日武彦著『不幸になりたがる人たち 自虐指向と破滅願望』だろうか。実際あった奇怪な事件の奇怪な人々の奇行を取り上げ、なぜそういう行動に至ったのか、精神科医である著者がその行動心理を解説するというもの。これは、今までの人生で多くの人に薦めてきた。
だから映像作品についても自ずからそういうものになる。たとえば私のお気に入りのドキュメンタリーのテレビ番組は『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)。個人的には、これの「私が踊り続けるわけ」シリーズは大変面白い。日本最高齢の57歳のストリッパーの方に密着したドキュメンタリーだった。
そういうことなので、フィクションよりもノンフィクションが元々好きなのだ。
事実を積み重ねることが、必ずしも真実に結びつくとは限らない。
これは、かつてフジテレビ系で放映されていて映画化もされた『放送禁止』というフェイクドキュメンタリー番組の冒頭句。これは私も見ていて私は『放送禁止5 しじんの村』が好きなのだが、こうしたフェイクドキュメンタリー(モキュメンタリー)ものも好きだ。フェイクドキュメンタリーとは、ドキュメンタリーの体で作られたフィクション作品である。こういうドキュメンタリー調の作品で何が本当で、何が作り物なのか、その狭間でクラクラするのが、私は好きだ。わかりやすい例を挙げると、日本でも話題になった映画『ブレアウィッチプロジェクト』のような感じと言ったら伝わりやすいだろうか。この『放送禁止』もそうした番組で、テレビ局に多く残されているビデオテープの中でも「何らかの理由」で放送が見送られた(放送禁止)ものを放送する、という設定の番組で、見たときはとても衝撃だった。「この番組はフィクションです。しかし以下の事象・人物は実在します。」という言葉の通り、そのフィクションの話の根拠に実在する事象や人物を持ってくるのでたちが悪い(誉め言葉である)。見ているどこまでが「作ったもの」なのかわからず、自分の認識がぶれてくる。本書でもこれを「エポックメーキングなフェイクドキュメンタリー作品」として一番最初に挙げており、「事実(リアル)で裏付けられた」作り話がそのとたんに強烈にリアリティーを帯びる好例と言える。
もちろん、フェイクドキュメンタリーはこうしたホラー系のものだけではない。NHKで放送された『TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇』も、特撮好きでもある私を大いに楽しませてくれた。芸術家岡本太郎が手がけた「タローマン」という特撮番組が70年代にあった、という設定の下で、その再放送をした(という体)の番組だった。そのタローマンや怪獣(「奇獣」と呼ばれている)のデザインやコンセプトはいかにも岡本太郎氏が作りそうなもの(実際それは岡本太郎の作品などを下敷きに作られた)であり、同氏が作った大阪万博の「太陽の塔」と同時代に作られた(という設定の)番組ということだったので、変な説得力があった(その時代、岡本太郎氏はバラエティー番組や、「芸術は爆発だ」でおなじみのCMにも出ており、こうしたテレビ番組を手がけていてもおかしくない)。また、個人的には「70年代のカルト特撮」の雰囲気がうまく作られていると感じた(陳腐な特撮技術やサイケな全体の色調など)。さらに、ダメ押しで番組最後に流れる、サカナクションの山口一郎が本人役として出てくる「TAROMANと私」というインタビューコーナーである。山口は子どもの頃から大のタローマンファンであったが、それは人気が余りなくカルト特撮だったのでまさかのこの再放送を大いに喜んだ(という体である)。山口が「当時の」タローマンとの思い出を語るミニコーナーだ。「令和に放送があるなんて嬉しい!」と「存在しない思い出」を振り返る山口によって、番組のリアリティはさらに醸成されていく。この『TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇』も本書では詳細に解説されている。
この『フェイクドキュメンタリーの時代 テレビの愉快犯たち』では、こうしたテレビのフェイクドキュメンタリー番組を年代順に振り返り、読者に「リアル(現実・真実)」と「リアリティー(現実感)」の線引きとあいまいさを考えさせる構成と内容になっている。どこまでが「本当(ノンフィクション)」で、どこからが「作為(フィクション)」なのかを問う本だと思った。
それはどこまでが「本当」なのかと問う日々
しかし、こうした問いは私たちの日常生活にも普通に多くあるものではないか、とつい先日考えさせられた。それは、やうちきみこさんの記事を読んだからである。
(なお、やうちさんには、当該記事において拙記事をご紹介いただきました。ありがとうございます。)
大変貴重なご指摘であり、志望理由書作成の指導者である「自分の仕事」を見直すよい機会をいただき、大変ありがたいと思っている。しかし、これと同じようなことを今までも仕事の上で保護者の方や生徒からよく言われてきた一方で、それでもなお、これを言われると、「自分がやっていることは本当に正しいことなのか」、「この志望理由書は本当にこの子(生徒)が思っていることを表しているものなのか」といつも自問自答してしまうのも事実である。自分(〆野)の添削という「大人の介入」を経て作られた、目の前の「立派な」志望理由書を見て、翻って私は同じ18歳のときこんな立派な「未来予想図」を描けていたのだろうかと考えるとそれは容易に否定できる。そしてそもそもこんな「立派な」18歳など実在するのかとさえ思えてくる。これは「大人の作為」が入っており、この子の「本当にやりたいこと」を阻害しているのではないかと思うと、ふと自分のやっていることに自信をなくす。
いや、あんなにこの子の話す「この子自身がありたいと考える将来」を聞いた上でこのように文章としてまとめたのだから、これは「この子の考えや思い」を体現しているものに決まっている。私は、その「考えや思い」が志望大学に評価されるような文章として、文章作成上の補助をしたに過ぎない。私は、必要最低限の、しかも文章作成に関わることにしか、介入をしておらず、その子の将来決定にはクリティカルな影響を及ぼしていないはずだ。
こうした自問自答を通して、一体今添削している志望理由書は、果たしてどこまでが「この子の本当の思い」で、どこからが「自分の作為」になってしまうのか、そのように、それらの境界線を見極めながら慎重に添削をしているが、20数年経った今もいまだに十分な自信が持てない。願わくば、この添削によってこの子の夢がしぼんでしまわぬように。この添削は、あくまで文章表現に対する訂正に過ぎないのであり、あなたの夢ややりたいことを否定しているのではないのだと、頭の中でつぶやきながら、いつも添削をしている。
学習塾運営会社を退職した後、20代の私は出版会社に編集者として転職した。それがその当時、「本来やりたいこと」だったからである。私は念願の出版会社の就職に喜び、周りも応援してくれた。しかし、ある本の校正と編集を任されたとき、自信満々に私が持ってきた校正後の原稿をチェックすると編集長はこう言った。「あー……これだと○○さんの作品じゃなくて〆野君の作品になっちゃうよね」、続けてこう言った。「こういうことがしたいんだったら、〆野君が本を書いた方がいいよ」、そう言うと編集長は苦笑した。私は直感的にこの仕事に向いていないと思った。また自分が自信を持って行っていた校正は、校正ではなく、「他人の作品を自身の作品へと無遠慮に書き換えている行為」だと気付いた。こんなの、編集者でも何でもない。その年、私はこの出版会社を退職し、また教育業界へと戻った。
本書の読書体験とやうちきみこさんの記事を読んだことのタイミングがたまたま合致したことで、あの頃に培われたこのトラウマが私の中で肥大化した。いやそれでいいのかもしれない。いい戒めである。こうしたことは定期的に思い出すべきなのだ。今度は生徒の文章を自分の文章に書き換えるなどということは絶対あってはならない。それは人の人生を他人の私が書き換えることと同じだ。そんな先生は絶対いてはいけない。どこまでが「本当」でどこまでが「作為」か、これは私の仕事にも関わる重要なテーマなのだなと、くしくも思ってしまった。