受験教育の中で「クリエイティビティ―を得る」ことは可能か、という無謀な問いかけ~あるいはソフィストの言い訳~
更新日:2024/11/22
生煮えの受験教育論
歯切れの悪い書き出しから
この記事、何度かまとめたものの、どうもうまくまとまらず、何回か書いてはお蔵入りにして、また取り出しては書き出して、それでもうまくまとまらず……。結果「生煮え」の状態でお届けすることになることをお許しいただきたいです。表題の問いに対する有効な回答には、どうやらたどりつきそうにありません(情けない)。
先日(と言っても大分経ちますが)、古澤伸泰先生のアカウントにお邪魔し、記事を拝読させていただきました。そこには、受験教育に携わる私に大変耳の痛い内容が書かれておりましたが、とても考えさせられるところや新たな気付きがあり、堪らずコメントを致しました。
(古澤先生の記事です。)
その節は、先生にはご対応いただき、ありがとうございました。
で、その記事の内容から、自分の指導のあり方や受験教育観などを振り返りながら、「受験教育に接する中高生が果たしてその環境下でクリエイティビティーを獲得できるのかどうか」、全く試論の域を出ませんが、考えてみたくなりました。
古澤先生の問題提起的なご指摘
古澤先生の記事の中で、要約されているので、そちらを引用させていただきますと、このような内容になります。私も、こちらの意見に全く同意です。
で、その上で、「なぜそうなってしまうのか」について古澤先生も記事内でご説明されていましたが、私の方でその辺をもう少し掘り下げてみたいと思います。
受験教育としての小論文指導
まず、「受験教育とは何か」、ということなのですが、これは単純明解に言えば、「得点することと評価を得ること(合格すること)」がその究極の目的であり、そのための教育と言えます。受験というシステムそのものの良し悪しはまた別にして、試験を突破しないとその先がないため、その試験をクリアすることに特化したそのための教育、それが「受験教育」と言えます。
その中の小論文指導も、上記の目的に適ったものであり、私のしている「小論文指導」などもこういう性質のものです。
文章作成における指導には、大きく二つの系譜・歴史があります。
一つ目は、「全人教育としての文章作成指導」です。いわゆる「生活綴方教育」に代表されるものです。これは1900年代から始まる教育である「綴方(つづりかた=作文)教育」を通して、その子の人間性を育んでいくもので、古澤先生のお考えやお取り組みはどちらかというとこちらに近いと拝察します。生活の中で気付いたことを子どもたちに作文というかたちで自由に表現させて、それを基に生徒たちに議論してもらう、おおよそこのような取り組みで、その中で子どもたちには表現力や思考力、倫理性や社会性を涵養してもらう、そういうことを目的にした文章作成指導です。
(生活綴方教育について)
二つ目は、前述の通り「受験教育としての文章作成指導」です。この指導の歴史も古くからあるもので、たとえばあの「起承転結」は試験と大変関わりが深いものです。「起承転結」は漢詩(唐代の近体詩)の「型(構成)」であることは別の記事でも述べましたが、これは唐代に完成を見る科挙試験(中国圏の官僚採用試験)に詩作が一科として課されていたことと関わりがないとは言えません。つまり、今も昔も、洋の東西を問わず、「型(構成)」を基に文章作成のテクニックを獲得する指導法や教育法はあったわけで、いまの大学受験教育の「型」を用いた小論文指導も、この延長線にある文章作成指導と言えなくもありません。
(「型」と小論文)
これらは「ソクラテス的教育」と「ソフィスト的教育」と言い換えてもいいかもしれません。古代ギリシャには、文章の修辞法や討論術を教える「ソフィスト」という職業家庭教師がいました。これは元々「知者」という意味であり、彼らは「智賢の人」として尊ばれていたわけです。しかし、ソクラテスは多くのソフィストに討論を挑みます。最初は持ち前の知識や技術で善戦するソフィストたちですが、その討論の中でくしくも「ソフィスト」の無知が露見するわけです。そこでソクラテスはこう言います。「あなたは自分が『何も知らない』ということを知らなかったが、私は自分が『何も知らない』ということを知っている(だからあなたに今までこうして問い続けてきた)」と。これがいわゆる「無知の知」であり、ソフィスト的な知識やテクニックを偏重した学び方の敗北とソクラテス的な人間観に基づく学び方の勝利を示す逸話です。ソクラテスは、「『無知の知』を自覚するからこそ学び続ける意味が生まれ、そういう人間性が醸成される」ということに自覚的だったわけです。
たしかに二つとも同じ「文章作成指導」である以上、交わるところも多いです。しかし、その指導の到達点や目標は異なるため、「似て非なる」と言えなくもないです。そして、「受験教育としての小論文指導」がソフィスト的ないびつなものであるということも、この両者の比較によってよりわかるでしょう。
「得点・評価」と承認欲求と私 ~あるいは中学受験の洗脳と呪縛~
古澤先生の記事の中で、「受験に頑張った子ほど」というフレーズがありました。私としては、ここがとても重要なポイントだと思っています。
かくいう、私も中学受験を頑張った「中学受験勝者」です。だから、このフレーズにピンと来ました。つまり「全ての中高生」ではなく「受験に頑張った子」に特に顕著に見られる傾向だというのが、古澤先生の主張かと思います。ここは特に、私も賛同するポイントです。
自慢にもならないことですが、私は中学受験を突破し、当時東大合格者を一番輩出していた私立中高一貫校に入学しました(結局、素行不良と成績の悪さで中学二年生で退学させられましたが……この辺のエピソードは下の記事に書いています)。しかし、なぜこの難関を突破できたのか(なんて自分で言うのもなんですが)、それは「人に勝る殺人的な勉強量」によるものでした。朝6時に塾に行って勉強し、そこから車で小学校に向かい学校で勉強、終わったらまた塾に行って夜10時くらいまで勉強、小学校6年生のときはこれを毎日続けていました(よくまあ親子ともどもやったもんだな)。
(私の中学時代(笑))
こんな話をすると「それはそれは大変でしたね…」とみなさん気の毒そうに声をかけてくれるのですが、実はこれ本人(私)としてはめちゃめちゃ楽しかったんですよ(笑)。もう塾大好きっ子で。これ何でかっていうと、私と中学受験の勉強とが非常に相性よかったからなんですね。
私、とても運動音痴で体育の時間とかすごく嫌でした。で、御多分に漏れずスクールカーストは最下層(小中で運動できない子はもれなく人気がない!)でした。だから、学校は全く面白くもないです。しかし、中学受験の勉強とは相性ばっちりでした。特に国語はやればやるほど伸びていき、元々読書が好きなのもあってか天井知らずに伸びていきました。そうすると、親も先生もみんな褒めてくれます。当然気分もいいです。塾でテストの成績は常に廊下に貼りだされていましたが、いつもトップ層なのでみんなにうらやましがられました。正直、めちゃめちゃ気持ちがいいです。学校にいるときとは大違いです。こうして、私はどんどん受験勉強沼にはまっていきました。「勉強して点を上げていくとみんなに認めてもらえる!」、それが当時の私の心境だったと思います。私にとって、受験勉強は唯一自身の承認欲求が満たされるものだったのです。
古澤先生の塾に通われている生徒さんにはこんな私のような子が多いのではないか(高学力層の中学生に指導をされているとのこと)、と私は直感的に思いました。だから、その子たちにとって「人の意見が読み取れること」こそ親や先生に「よくできたね!」って褒められて評価されることであり、「模範解答」により近づけていくことこそが文字通り「模範生」への道なのですから、当然その子にとって、そこが「最高到達点」であり「最終目標」となるのではないか、自身の経験を基に考えていくと、そのような結論に至りました。
語弊を恐れずに言えば、「『得点と評価だけを追い求める受験勉強』によって承認欲求を満たす」ことといった中学受験の洗脳や呪縛から、その子はまだ解き放たれていないのではないか、と私は思いました。
私はラッキー(?)なことに、中学時代に大きく思春期をこじらせ立派に「中二病」を罹患したため、その洗脳や呪縛から解放され、「勉強より楽しいことや承認欲求が満たせることは、この世界にいっぱいあるじゃん!ヒャッハー!」と北斗の拳のモブキャラみたいになりました。そのため、「受験勉強ってそういうもんじゃね?」とまさに中二辺りから俯瞰で見れるようになり、「受験テクニックなんてただ点取るためのもんであり、人生かけるほどものじゃないっつーの!」という姿勢になったのを思い出します。そして、受験勉強が「本来の勉強」ではないこともわかりました。
「じゃあ、本来の勉強や学びとは何だろう?」、高校生になった私はそう考え、ソクラテスなどの哲学者を本で知り、私は大学では「哲学科」に進学するわけですが、それはまた別の話しとして「自分語り」はこの辺にしておきます。
本来あるべき小論文指導のあり方と私の立場
理想的な小論文指導のあり方とは、当然、前述の「全人教育としてのあり方」と「受験教育としてのあり方」の融合ではありますが、これは現実味がないことでしょう。受験テクニックを示しながら人間性を育むなんて、少なからず私レベルの先生には無理なことです。
たとえば、こんなことを言うと古澤先生に眉を顰められてしまうかもしれませんが、私は生徒に「課題文に対して、反対意見で書かないで、賛成意見の側で書きなさい」と指導します。これ、「100%受験指導として」です。
そもそも、一冊の分厚い本にしたためる程の論(課題文)に対して、たかだか800字程度の小論文で十分な「反対意見」が書けるとは思えません。ましてや、書き手は評論家や大学教授といった言論人です。人生経験の量も今までの学習量も中高生と比べて圧倒的にあります。「そうした大人」に中高生が、的確に反対意見を述べ、かつ論理的に反論することが可能だとは思えません。したがって、「受験テクニック的には」賛成意見側に立ち筆者の意見に賛同しつつも、自身の見聞や体験を例として引きながら論展開した方が「得策」だと、生徒には指導しています。
「それでは生徒のクリエイティビティは養えないじゃないか!」、それはごもっともな意見です。私もそう思います。自由闊達に生徒が意見を述べることを妨げていますから。私もそれはわかっています。しかし、その生徒が医者になるために、弁護士になるために、あるいは「なりたい何か」になるためには、どうしても大学に進学しないといけません。その大学に入るために、私はそうした「受験テクニック」を指導せざるを得ない、と私の立場からは言えます。
その代わりと言ってはなんですが、以前塾や予備校の講師だったとき、私は卒業する生徒にはいつもこう言っていました。「明日から私が教えたことはきれいさっぱり忘れてください。大事に使ってきた単語帳も参考書もノートも全部捨ててください。」と。大学入試を突破するために、それらは教えてきたことです。ですから、大学に入った今となっては全く不要です。もういらない知識や技術ですから、全部忘れて欲しいです。私は、ソフィストの「受験テクニック屋」さんです。そんな奴から教わったことなんて、この先社会に出て通用するわけがありません。むしろ、こんなものが「学問」だと思われては、私も困ります。どうか頭を空っぽにして、その代わり、大学では新しいことを学んで欲しい、このようなことを私は生徒に言っていました。そして、これは今でも全く変わらない気持ちです。
まとめ ~「それはそういうもの」とあなたには割り切って欲しい~
受験勉強を超えた先に、クリエイティビティ―を養う真の学びがあるのですが、まずは、目先の敵である「大学受験」を倒さない限りは、あなたはその先のダンジョンや冒険に進むことができません。ですから「大学受験という強大な敵」を倒すまでは、私と是非パーティ―を組んでください。その敵には私の魔法は効果てきめんなはずです。あなたが前線で戦っている間、私は的確に後方支援します。しかし、もしあなたがその敵を見事討ち取ったそのときは……、私はこのパーティ―から抜けてあなたとお別れします。「え、残念?」、そう言っていただけるのは大変ありがたいですが、あいにくこの先の敵には私の魔法は一切効かないのです。ですから、私がこのパーティ―にいる意味はありません。新しい冒険の前には、酒場でどうか次のパーティ―メンバーを探してください。
「私の魔法はそういうもの」なのです。次のステージに進むあなたにはお荷物にはなれど、全く役には立ちません。だから、あなたには「それはそういうもの」と割り切って欲しいのです。そして、できれば私ごと、私の教えたことは忘れて欲しいです。
大学に行って論文を書くことの基礎の基礎ぐらいは、受験を通して身につけられたかと思います。しかし、それは文章を書くことの賭場口に立ったくらいのものです。本来、文章を書くとはもっと自由で創造力豊かな営為です。しかし、その醍醐味をあなたに味わってもらうことは、残念ながら私の立場ではできません。なぜなら、私はソフィストなのですから。
やはり、まとまりがつきませんね(笑)。
しかし普段こうしたことを考えませんから大変貴重な機会になりました。古澤先生、こうしたことを考える機会を与えていただき、ありがとうございました!