![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/154172795/rectangle_large_type_2_01c589389370aac9c42fb53fc9aab83b.png?width=1200)
チェーザレ・パヴェーゼの「アレ」はジャーナリングだったのか。~大変心もとない試論のようなもの~
長年気になり続けた「アレ」はもしかして……
私の変わった読書遍歴
現在は在宅で仕事をしていますが、以前は学習塾や予備校で生徒に対面で指導していました。自分では専門は「小論文」だと思っていますが、大手予備校は別にして、中堅の学習塾や予備校だと、「小論文」と合わせて、「現代文」や「古文・漢文」と「国語全般」を指導することが多いです。少なくとも、私はそうでした。
「自分は現代文しかやらない」、「自分は古文しかやらない」という予備校講師も多い(大手予備校では、同じ国語科でも大体「現代文」・「古文」・「漢文」と講師は分かれており、「小論文」に至っては「論文科」として別の教科カテゴリーとなる)ですが、私は「国語関係」として、仕事では全部引き受けることにしていました。それは、生徒のためというよりも申し訳ないですが自分のためです。そうしておけば、仕事をより多く引き受けることができます(いわゆる「社員講師」は別にして、ほとんどの予備校・塾講師は時間給のアルバイトである。したがってより多くの授業を担当しないと稼げない。)。
さらに、もう一つ、メリットがありました。それは、「仕事にかこつけて多くの本が読めること」です。昨今は、仕事をしていると読書ができないという主旨の本が発刊され、それがベストセラーになっていますが、私の仕事は、「本を読むこと」も仕事のうちです。
教育関係の職に就く人には、大きく分けて二つのタイプがいます。一つは「子どもの面倒を見るのが心底好きな人」。こういう人は、たいてい教育学部などへ進学し、学校の先生になります。もう一つは「その教科が好きな人」。こういう人はたとえば理学部数学科とかに進学し、その好きな数学を活かす手段として「数学の先生」を選択します。私はどちらかというと後者であり(今まで教えてきた生徒よ、すまん)、学生の頃から「活字中毒」であったためそうした好きな「読書」を仕事にする一つの手段として「国語の先生」を選んだくちです。ちなみに「学校の先生」にならなかったのも、「生徒を指導したい」というよりも、より多くの本を読んで自分が勉強したいためなので、部活動の顧問とかになって自分の勉強の時間がなくなるのは嫌だと思ったからです(ひどい)。
したがって、私が「小論文」と共に「現・古・漢」の指導を望んだのは、仕事にかこつけて古今東西いろいろな本が読めるからです。日本や中国の古典文学から最近発刊された小説や評論まで読めて、しかもそれでお金がもらえるなんて素敵過ぎるという、大変「不真面目」な理由から、国語系オールラウンダー講師を務めていました。
さて、そうした状況下で多くの本を読む機会に恵まれたわけですが、その「仕事」で巡り合った本や作品の中で、折に触れて思い出される作品がいくつかあります。たとえば、内田百閒の『件』や太宰治の『津軽』などがそうですが、中でも今なお思い出されるのは、あのエピソードです。それは忘れもしない、平成13年度のセンター試験(今の大学共通テスト)の国語の大問一の富永茂樹氏の『都市の憂鬱』の中で紹介されたチェーザレ・パヴェーゼのエピソードです。今まで、ふとこれを思い出しては、「アレ」は何だったのかと思ってきました。
チェーザレ・パヴェーゼの「アレ」
富永茂樹氏の『都市の憂鬱』自体のテーマは、現代文の評論文ではおなじみの、いわゆる「近代批判」です。現代社会は、近代に萌芽し成長した思想を基盤に成り立っているわけですが、その現代社会のシステムに今多くの「ほころび」が出てきています。そこで、その問題点の打開策を見出すべく大本である近代の思想やシステムに批判の目を向ける、というのがこのテーマの内容です。この作品もそうした主旨の作品であり、その中で「チェーザレ・パヴェーゼの日記エピソード」が紹介されます。
著作権の都合もあるので、ここで引用することはできないのですが、おおよそこのような内容です。
チェーザレ・パヴェーゼ(20世紀のイタリアの詩人・小説家・文芸評論家)は日記をつけていたのですが、ただ日々のことをそこに書きつけていただけではありません。彼は、それを何度もくり返し読んでは、その都度自分の意見やそこから生まれる思念をそこに加筆していったのです。この再読と追加を、ひたすら孤独な状況下で、彼は進めていました。それはまるで丹念に、自己を日記という容器に保存するかのように……。
しかし同じ保存でも、これはたとえばジャムを容器に保存するのとは異なります。たとえば、ジャムならそれはいずれ食すというその目的のために保存されます。消費するために保存するのです。しかし彼の日記は、再読という点では「消費するための保存」と言えるのですが、そこに加筆していくことで日記に自分を「より」保存していくこととなるため、書くことが自己目的化(つまり「何かのために日記を書いているのではなく、日記を書くために日記を書いている状況」)してしまっていると言えます。そもそも日記は会計帳簿から始まったと言われます。ということは、本来は「何かの備え」としてそれは記録しているものです。しかし、彼の日記は、今後の何かのため(たとえば確定申告のために店の帳簿を見返して今までのお金の出し入れを確認するなど)という日記や帳簿の目的と機能から逸脱し、ただ自己に没入し自己をより強化してひたすら自己増殖することに特化した、「日記ならざる『日記』」と言えるのです。
『都市の憂鬱』の著者富永茂樹氏は、ここに近代社会の「自己目的化」と「自己疎外」を見出し話はさらに展開していくわけですが、このエピソードは大変奇異であり、20代の私はここに病的な印象を感じました。そのため、長らく私の記憶の中にこびりついていて、それは何かの拍子に都度思い出されました。
私も、たとえば日記とは言えませんが手帳をつけています。これは予定の確認だったり、お金の管理に使ったりしているからです。それは目的が別にあるから記録しているものです。また自分の書いたnote記事をアップ後も読み直したりして、修正や加筆をしたりします。しかし、それも、多くの人が読むため、なるべく書き間違いをなくし読みやすい文章を提供するために行っていることであり、もしこれが日記であるなら自分以外見ないし自分がわかっていればいいのだから、そこに追加で、都度思ったことを書き加えていく必要はありません。そう考えると、チェーザレ・パヴェーゼの「日記?」は、何のために書き続けられていたのか、私には謎であり、この人は大丈夫なのかと今まで「勝手に心配」していました。
ジャーナリングが「アレ」の正体なのか?
先日、他の方のnoteを見ていて「ジャーナリング」という言葉を知りました。ちょっと気になって調べてみると、どの方の記事も、おおむねこのような内容でした。
ジャーナリングとは、頭に浮かんだことをそのまま紙に書いていくことです。書く内容は自由で、その時に書きたいことならなんでもOK。思いつくままに、感情を吐き出すことが重要です。
ジャーナリング研究に関する論文では、ジャーナリングを「expressive writing(エクスプレッシブ・ライティング)」と表現しています。この「エクスプレッシブ・ライティング」の実験では、自分の感情を紙に書き出すことで、ストレスが大幅に減少するという結果も出ています。
(中略)
一方ジャーナリングでは、きれいな文章を書く必要はまったくありません。気の向くまま、ガーっと気持ちを吐き出して書く。誰にも見せることはないので、まとまっていない文章になってもOK。大切なのは、考えず、止まらず、ひたすら書き続けること。何も思い浮かばなければ、それをそのまま書けばいいんです。書いているうちに気持ちがすっきりしてくると思います。
これは、そもそも日記と違うようです。
●日記…気持ちを整理して頭の中で考えてから書いたり、後で見返すために保存用として書く人も
●ジャーナリング…頭に浮かんだことを考えずにそのまま書いていく。何も思い浮かばなければ、「何も思い浮かばない」とそのまま書いてOK
つまり、一種の心理療法的なもののようです。これにより、自分の「こころ」が整理され、ストレスが解消されるということらしい。最近、これと「バタフライエフェクト」をnote上でよく目にするので、気になって調べてみましたが、こういうことのようですね。
頭の中で深く考えずに、とにかく「書くために書く」。自分の感情や心理を吐き出すことで、それを可視化して自分の気持ちを整える、こんな理解でOKです?
ということは、チェーザレ・パヴェーゼの「アレ」って「コレ」に近いものなのでは?と、ジャーナリングを調べて行く中で、ふと考えたのです。私はイタリア文学や心理学の専門家ではないので、あくまで直感的にそう思っただけなのですが……。
もちろんチェーザレ・パヴェーゼが心理学に精通し、こうした心理療法を知っていたかどうかは知りません。ただ、手法としては同時代のシュールレアリストであるアンドレ・ブルトンの「自動記述・自動書記(オートマティスム)」に似ているから、「そうした芸術的な創作手法」として知っていたかもしれないなんて……。また、チェーザレ・パヴェーゼは服毒自殺をしています。だから、そうした本来の自分の心の弱さを知っていて、心理的に楽になるためにジャーナリングとして(ジャーナリングという手法を知らなくても無意識的に)「日記」を書いていたのかも。とまあ、これらも全て、あくまで推測なのですが……。
まとめ(のようなもの)
なお、ネットで検索したYahoo知恵袋の過去の回答によれば、ここで問題となっているパヴェーゼの日記は、学芸書林から刊行されている、全集「現代世界文学の発見」の第6巻、『実存と状況』がそれであるとのこと。私今まで、刊行されていることも知らなければ、当然それを読んだこともありません(残念な人)。
ここに至って、お読みのみなさまから「元の『日記』ちゃんと読んでからこれ書けよ!」とお叱りの声を多くいただきそうなので、この辺で話をしめさせていただきますが、「書きたいから書いた」のはパヴェーゼも私も同じなので、大変心もとない試論のようなものをお届けしたのは申し訳ないと思いますが、そこはどうか聖母のような慈悲深さでお許しいただけると幸いです……。
だって、書きたかったんだもん!
(引用資料〉
『“書く瞑想”「ジャーナリング」とは? 専門家に聞くやり方や効果、体験談までご紹介!』
いいなと思ったら応援しよう!
![〆野 友介 | 教育系noter | 小論文・作文指導者| 志望理由書の作成指導も |](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/136724393/profile_17649c8114ec9a269c7cf7dd2218783a.png?width=600&crop=1:1,smart)