エネルギーを使い果たした時、人はどうするのか
メンタル関係の書籍を読んでいると、「エネルギー」という言葉を「精神的な活力」という意味で使うことが多いのかな、と感じる。最初は独特な表現だと感じていたけれども、慣れると、あぁ、そういうもんなんだな、と思えるようになってきた。そして、自分も「エネルギー」というものをそういうもの(=精神的にポジティブな活力)として感じることが多くなってきた。
何度も鬱状態を繰り返し、退職まで至って、本当の意味で自分に向き合うことができている今、長い時間をかけて知らず知らずのうちに、この「エネルギー」を浪費してしまったことを理解した。
敢えて浪費と表現したのは、私がエネルギーを適切に扱うことができず、闇雲にただ、努力することこそが善であると過信して、生きてきてしまったからだ。努力という言葉は、昔から美談に使われやすい。「大人」は皆、「努力は裏切らない」というようなことを言っていたし、言っている。そしてそれは、広義では正しい。私も、自分の努力や過去はどんなにネガティブなものも、その経験全てが今の自分を形作っていると考えれば、無駄なことは一つもなく、全てが自分そのものだと捉えられている。
しかし、それは、結果論に過ぎない。
適切な努力をするためには、自分の限りあるエネルギーを上手にコントロールするためのスキルを身につけるべきだったし、自分を客観的に捉えることや、もっと広い視野をもって自分と対話する必要があったのだな、と思う。
では、過去の私の、どの時点でそれができただろうかと振り返ると、自信を持って言える。「できなかった」と。過去の私をどう振り返っても、今の私の感覚を理解できなかったと思う。つまりは、今の私はなるべくしてなった状態なのだ。
退職に踏み切るまで、もっと後悔するのだろうと思っていた。ここで辞めたら、きっと後悔する。それでも、もう、無理だ、と心身のSOSを受け入れて退職した。鬱状態がもっとひどくなっても仕方ないと思っていた。相当な覚悟で退職したが、そうでもなかった。
むしろ、自分がよく、生きてこられたなという所まで追い詰められていたことに気づいた。そして、そんな自分を自分で助けることができたんだ、ということにも気づけた。
今はただ、辞められてよかった、と思っている。
とはいえ、現実的な問題として、再就職はしなければならない。
公務員を辞めると、社会が別世界に見える。それが怖くて辞められなかったわけだが、色々調べていくと、なるほど、世界は色々な意味で面白いと思えてきた。
6歳で小学校に入学してから一度も途切れることなく、34歳までずっと学校教育というものに関わって生きていた人間が、一歩、学校の外へ出てみたら…という記録をここに残していこうと思う。
いつまで続くかわからないけれど、昔からなんとなく、文章を書くのは好きだった。一時期二次創作などにも手を出したけれど、結局読者需要が気になてしまい、辞めてしまった。長年の付き合いだったX(元Twitter)も、自分には不快な情報も流れてきてしまうあの仕組みについていけなくなり、辞めてしまった。
勝手な印象だが、noteは好き勝手に書けるように思っている。
こっそり、ひっそりと、大人になった私が「あーそんなときもあったわwww超恥ずかしいんだけどwww」って笑いながら消せる程度の文を記していこうと思う。
さて、前置きが長くなったが、タイトルの件についてだ。
私は「エネルギー」という感覚を書籍を通して理解し、自分のエネルギーが枯渇してしまったということを認識し、ではどうするのか、ということを考えられるようになった。そして、とにかくこの数ヶ月で多くの書籍から自分の知的好奇心を満たす色々な知見を手に入れている。これは、自分が今まで繰り返してきた鬱状態の中ではやってこなかった方法で、これが精神的な安定につながったのかもしれない、と思っている。
しかし、多くの人が書籍から離れている印象がある今、私よりも若くして、心が疲弊してしまった人々はこういった知見をどこから得るのだろうか。と、ふと考えてしまったのだ。SNSで様々な情報を仕入れられる文化があるのはわかる。そこに爆発的な情報力があるのもわかる。でも、心の問題とは、SNS的に見栄えのする端的な情報で解決する問題ではない気がする。自分と向き合わないと、問題の全容が見えてこないというか、「自分」の問題だから、「これだけやっとけ」的なもので解決するわけではない。まぁ、もちろん「私だけじゃないんだ」と共感的なもので安心する作用でどうにか自分をごまかせるくらいならよいのだが…。
ある程度のまとまった文章(書籍)を読むというのは、SNS的な端的な情報を読むのとは違う感覚がある。読みながら考える、という作業や読みながら自分と対話する(自分ごととして捉える)という作業が介入してくる。そして、それを繰り返しながら「この筆者が言いたかったことはこういうことだろうけど、私の場合はここのこういうところが違うから、ここは分かるけど、ここがわかんないんだよな…」と悶々として、また、自分の考えと被るようなことを言っている書籍はないだろうか、と探す。そして読み、納得したり、葛藤したりしては次…と進んでいく。そういう作業の中で自分が納得できることを見つけることができたり、できなかったりすることで得られる「何か」がある。手当たり次第に読んだ本の中から、自分に都合のよい解釈だけが頭の中に残って、それが混ざり合ってなんとなくいつの間にか「自分の考え」が形成されていく。
でも、SNSは誤魔化されてしまう。
誘惑が多いのだ。一つ一つのことを調べていこうとしても、うっかり途中で広告を見てしまったり、ラインで連絡が入って返信している間に気がそれてしまったり…と寄り道している間に時間が過ぎてしまう。
心の問題に向き合う前に、なんとなく誤魔化して(誤魔化されてしまい)時間を浪費してしまい、気付いたときには手遅れに、なんてこともあるのかもしれないな、と思ってしまった。
まぁ、それも人生だと言われたらそうなのだが。
そうやって失われていく存在があったら、あまりにも悲しいなと思ってしまったのだ。
あまりにも唐突に感じたことなので、唐突に書き記してしまった。
エネルギーを使い果たした時、自分がどうしたらいいのかは、自分にしか分からない。どうやったら、自分のエネルギーを補充できるのかを知っておくことは、自分を助ける一つのキーとなるかもしれない。知っておいて損はない。それを知る方法は自分の「めっちゃ楽しい!!」「めっちゃ好き!!」を「覚えておく」ことだと思っている。あまり意識しないで楽しんでいたり、好んでいたりするので、気に留めないことが多いのだが、「めっちゃ」という形容詞をつけるに相応しい高揚感を覚えるものを記憶しておくと、エネルギーが枯渇した時に役立つ。
ちなみに私は、自分の知的好奇心を満たすことがエネルギー補充の一つになることを、この年になってようやく理解した。自分が知らなかったことを知ったり、調べたり、読んだりしている時、「めっちゃおもしれー!」って状態になってニコニコになっていた。
また話が逸れたが、とにかく、自分と対話できる機会を失う「書籍離れ」というのは、出版社が個人的な問題で嘆くよりもずっと、深刻な問題が孕んでいるのかもしれないと感じた、ということを言いたかった。
久しぶりに文章を書き起こすので、書きづらい。
もう少し自分が感じていることを思うように書けるように努力していこうと思う。