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頑張れる遺伝子?能力差別??

高慢


 多くのアスリートや、結果、業績を残してきている様々な分野で活躍している方々が現在、声を高らかに言っていることがあります。それは

「血の滲む努力をしてきた

 一般人が遊んでいる中、恋愛をしている最中、好きなことをして好きな物を食べている間、彼らはひたすらに「練習」「訓練」「我慢」を孤独にしてきた人達です。
 そんな彼らを目の前にして「それはただの遺伝子だ」「そういう才能だったってだけ」と、面と向かって討論をしてみて欲しいものです。

 勿論、恵まれた環境にて、例えば親が裕福で様々な余裕があり、英才教育が可能だった者などを賛美するつもりは毛頭ありませんし、それを努力だなんて言うつもりもありません。

 ただ、どうしてもモヤっ?としてしまうのは

「どちらの立場であれ、驕るな

 ってことなんだと思うのです。

 シンプルに、親の金で小さい頃からバイトや手伝いをすることも無く、ただ与えられ続けてきたくせに
「これが努力と才能だ。だから俺は偉いしみんなが諂え」
 なんて言われたら、「はぁ?!」となるように

「不運だ。人生ガチャ失敗。だからみんなが俺を助けろ。可愛そうなのは俺だから、頑張れる奴らは頑張って、そして俺をなんとかしろ」
 と、楽で何もしない世界で言われても、「はぁ?!」ですよね。

 これは両方が『傲り高ぶる』その姿が最悪であり、反感を買う。お互い様の似た者同士。
 高慢が、最大の罪とされる七つの大罪の一つというのも、頷けませんでしょうか。

 これって、何かに似ているなぁと考えてみると、要するに
 前者が資本主義で、後者が社会主義の構造なんだな
 という結論に至ります。



説明

 ここで念の為に、タイトルにあります『頑張れる遺伝子』『能力主義』について簡単に説明させて頂きます。
 「知ってるよ」という方は、上記⇧目次から次の大見出し『怠慢・怠惰』へと飛んで頂ければと存じます。


『頑張れる遺伝子』

 あなたには何か、人よりも優れ誇れる様な「趣味」「知識や認識」「技術」「実績」といったモノはありますでしょうか。そして今までに「無趣味」だ、と言う人と出会ったこともあるのではないでしょうか。

 世の中には様々な人がいます。その一例として「物事に熱中する」という感覚が無い人がいます。

 と言っても、そういった方はそもそも熱中する視点や観点が違うだけあり、例えば人に熱中してしまう、信仰に、家族に、遊びに、快楽に、無に・・・・・・
 というように、分かり易くスポーツや勉強、芸術や仕事というような生産性がないものに熱中しているだけ、という人が多いと個人的には感じます。

 ギャンブルや異性、推しに「ハマる」「沼る」といっても、そこに費やす行動力や原動力はスポーツなどとは変わらない努力だとも思いませんか?ただ不謹慎かどうかなだけであり、それぞれがそれぞれに頑張ってはいますよね。

 要は生産性があるモノや身に着くようなモノへの『興味』の問題へと、その受け取り方やコントロールが「下手」なだけであり、遺伝子として決定付けるような物ではないのではないか。もっと簡略化してハッキリ言えば、そういった感情や気分の操作といった「地頭」の問題であり、IQ等の遺伝子的要因はあるのかもしれませんね、っということではないでしょうか。


『能力主義』

 アメリカや日本では昔からまるでそれが「正義」かのように言われ続けてきた「努力は報われる」「24時間戦えますか?」というフレーズ。

 冒頭でも述べさせて頂いたように、能力主義として頑張った者は救われる、という思想は表層的には「平等」に見えて聞こえるのですが・・・では代々お金持ちが金の力でいい教育を受け続けることが出来て、またこの『能力主義』として収入が一般よりも多く貰え、そしてまたその子に良い教育を受けさせて良い会社に入社する・・・・・・

 これが「平等」か!?
 頑張れる場すらも与えられることが無かった人が、夢半ばに諦めて行った人の何倍も居ることに、上級国民は気づくことなく暮らしている。正に「パンが無ければケーキを食べればいい」状態。

 ということが現代では「多様性」として問題になっています。

 カール・マルクスが「資本論」で定義した帝国主義、資本主義の末期とも言えるこの永遠に続く貧困差別・労働力の搾取の在り方に近いですね。


怠慢・怠惰


 〇〇主義の話は、またまた何故か日本ではタブーのように扱われて、それはまるでゴキブリのように怪訝な反応がありますよね。それも変な世界観だとも思いますが、とりあえずそこは置いておきましょう。

 様々な世界の歴史を見ると、やはり貧困差別が付きまとっています。今に始まったことではありませんよね。

 教育や教養、そして『救済』が、文字を読める貴族だけ、立派な教会や施設があり、ずっと働き続ける必要の無い者だけが「祈り」や「修行」が行えてそこに神の導きが得られる?そんなバカな話があるか。

 こういった主張は、すごく分かります。なので欲深きは地獄へ、という思想も生まれ、気持ちを込めた祈りでも救われるべきだという元に、派生していった宗派が生まれるとこまでは全然いいと思います。

 ただ問題なのが
 では「修行といった鍛錬や努力をしなくていいのか?」

 過去の社会主義の世界が陥っているように「頑張らなくてもいい」という救済には、どうしても『怠惰』という罪が憑きまとってしまう。

 キツイ仕事をしても同じ。辛い修行をしても同じ。ならば、しなくていいんじゃないか?と、努力を怠ってくるのが浅ましい人間であり根源でもある。その結果、「粛清」や怠ける者の手や腕を切る、という脅しと見せしめによる暴力が萬栄し、そしてまたクーデターが起きてしまう。

 そのような負のスパイラルに入り込むと全滅の恐れがあり元も子もないための「能力主義」でもあるが、それも完璧とは言えないのが今のこの世界の全貌だとも言えますね。


現代


 というわけで、実はここからが言いたいことの本編なのですが笑

 非常に貧困や緊迫した状況での緩和や救済のための価値観や基準を下げるのは当然だとしまして、そうではない状況や環境、そして媒体や物に関しては「シンプル化」「簡易性」「効率的」になってはいけないのではないか、という懸念なのです。

 例えばで言いますが、先ずは
「言語」「言葉」「文章」など

 古文や論文、研究や医療書といった専門性はまた別の基準だとも思いますし、一般情報誌でそれら「専門用語」の多用は問題があるかとは思います。しかし基本的には記事、小説、新聞。議論、討論、会議。説明、注意書き、説法などの「分かり易く」「誰でも」という文化の過剰化は深刻な末路しかないのでは?汗

 教養もそうですし、修行もそうです。知識も技術も能力も、全ては訓練が必要であり研ぎ澄まされた心や肉体、精神を持って進化していかなければならず、そこに効率や低コスト化などによる『文化の過疎化』を良しとすると、需要に幅は広まりますが精度や質は落ちてしまう。そう、ベルリンの壁が崩壊後に発覚した乗用車、通称「トラビ」のように・・・・・・


 日本語というのは世界でもどのような統計や指標からも、トップ5には入る難解レベル、習得が困難な言語とされてます。にも関わらず、簡易化してしまっていくとどうなるのか。

 アインシュタインの生涯の悩みは、自身の頭の中で思い描いている数式や閃きをどうやって言語化し周囲の人に伝えるか、でした。もし、アインシュタインが日本語を日本人並みに習得していたとすれば、もっと後世に伝えられた天文学、物理学、量子力学は計り知れなかったのかもしれないと、勝手に想定しています。たった26文字前後での組み合わせでしかないアルファベット等では、多くの情報を交換するのには不十分とも言えます。鏡文字なんて必要なかったかもしれません。

 ヨーロッパや大陸では、もちろん近隣の国の人が多いという立地的、地政学的な事情もあり、身内や知り合いにも他国の人が多く一か国語だけではコミュニケーションが取りにくいという面もあるでしょうが、数か国語を習得しておくことが当たり前となっています。物事の単語が母国語では無く、これは部分的に他国語を使うといったことが多く、日本語の場合はそういったことは殆ど無いです。故に、映画大国として翻訳できない言葉が無い面としても、映画収益三位に入っていると言えるのではないでしょうか。

 文法や意味合いだけでなく、多くの日本人が世界と比較され「日本人は英語が喋れない」という事に驚かれたり、日本が世界に遅れていると思わせたい勢がこのトピックを取り上げたりしていますが、世界の言語と日本では自国の言語レベルの差が顕著に表れているだけなのです。
 大学にまで国語、日本語の学科があること自体が世界からすれば稀であり、正に我々ですら日本語をマスターしているとは言い切れない程に優れた言葉でもある中で、他国語をマスターしている必要性も余裕も無いと言ってもいいと思います。

※和算という優れた計算方式があったという話もあるそうです。GHQにより消されたとか、都市伝説の域は出ませんが、ヘブライ文字だとか現インドが計算大国であることの繋がりは、隠しきれませんね。


まとめ


 歴史的に見ても、侵略や差別により多くの人種、部族などが『民族浄化』されてきた人類における最悪な悪習が続けられてきました。

 そういった場合も、最後に残すべき文化とは「文字」「言語」なのです。

 言葉さえ、文字さえ生き残れば存在自体の全滅は免れる。文化だけでも残すことが出来る。そう考えてきた先人たちの知恵。その言語や文字の「過疎化」「簡易化」は消滅への一歩手前なことであり、決して起こってはならないことなのです。
 お時間があればですが、日本語であるひらがな、そしてカタカナ。世界でもその地の言語の起源や軌跡を辿ると、表面的に美化された歴史以外の痕跡を感じることが出来るでしょう。多くの権力者がなぜ禁句《タブー》としてきたのか、などを・・・ね。

 日本は戦争には負けました。しかし、今では「文化勝利」と言えるほどに努力し、発展させてきた実績が今の「経済大国」「治安の良さ」「平和」でもあります。その功績はヤマト魂、サムライ魂、武士道があってだと思います。

 分かり易く、シンプルに、二元論、ゼロサム思考に陥らず✖

 誤解やすれ違い、受け取り方、伝え方の間違い。勘違い、理解不足、過度な自己主張による争いが今でも世界中に絶えません。多くの者がそれらによる暴力と復讐を胸に掲げ、無駄な摩擦を弄しています。自身が理解する前に、理解しろと主張だけを相手に感情という火炎瓶を投げつけています。
 思いやり、他者への理解、寛容、を相互に持ち、知識不足ならば仕方なし、ではなく教えて指導する。それが本当の全世界が目指す「多様性」であります。

 〇か✖か。白か黒か。右か左か。ゼロか百か。敵か味方か。
 助けるか否か。与えるか否か。受け入れるか否か、ではなく、子供と同じく個々の「教育」です。

 そのようなシンプル思考には全員がならないような「努力」は最低限として持たなければなりません。遺伝子がそうだから無理、だとか、能力主義は差別的でダメだとか、そういった捉え方をせずに。
 対策や政策も、人も物事も。どっちがどうではなく、それぞれが個々にどうするか。その思考そのものが何よりも大切な事ではないでしょうか・・・・・・


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