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短編・エッセイホラー小説『あなた』       ~わたし~ 🌟無料🌟

前書き

 いつもお世話になっております。
 今回の『あなた』は、また少し趣向を代えて、語り部は私、作者本人とさせて頂きます。読む側としてのスタンスとしましては、まぁエッセイのような感覚でいいと思います。

 そもそも、なぜ私が二人称小説に手を出したかと言いますと、WEB小説にあまり精通していない私自身が、勝手に想像してスマホやPC画面で見るなら殆どの記事が読み手に語りかけるような「二人称」であるなと感じ、その方が読み手としては入り込めやすい時代なんじゃないか、と思ったからであります。
 とは考察しながらも、私が書く小説の構成や文章、スタイルと文字数は全くWEB界隈に合わせることもなく、ずっと自分スタイルでは御座いますがその辺はまたご一興、ということでよろしくお願いします。斜め読みなんかをしても全く理解できない内容だと思います。
(当初は漢字も出来るだけ開き、Google検索上位表示アルゴリズムを気にしキーワード選定などをしていましたが、それすらも止めました。小説スタンスとしてのそれはしっかり読むには逆に読みにくいと感じました汗)

 ある種の原点と言いますか「小説」とは「小」と名打っている通り、昔の文献は主に「書き言葉(文語)」
 例えば
「いざ賜りたくそうとをふ」みたいな(すいません、適当です)

 文章言葉を学び知っている、教育が成された貴族しかそもそも書けず、読めず、貴族から武将、皇族などへ宛てた手紙が主流でして、どうしても内容が政治的、宗教的、暗躍的で一定のプロパガンダが含まれていました。
 これらを総称的に「大説」と呼ぶそうです。「小説」という概念が生まれてから「大説」という捉え方が誕生しただけなんじゃないか、とも個人的に考えています。

 一方、「話し言葉(口語)」で書かれた物を「小説」とし、日本では”近代小説”として広まったのが明治時代。ネットでも比較的、下層階級が生み出したものとあります。一般国民も読み書きができるようになってから、ということですね。

 つまりここで何が言いたいかと申しますと、ネットであれ口語であれ、そして流行語からネット言語(wwとか草、厨房、ニキなど)それらは小説、大説のベクトルでは垣根などは無い、ということです。

 大衆娯楽として誕生した「小説」ですが、現代では更に大衆娯楽が分かり易くシンプルな媒介へと変わりましたね。

 ラジオ⇒漫画⇒映画⇒TV⇒動画・・・・・・

 動画も10分と短くないとダメ、多くの現在の大衆はそれ以上の集中力は無い。
 ネット記事も、2、000文字が理想で、長くても4、000文字。
 ネット小説もそのような影響を受け、その範囲でしか読まれなくなってしまいました。

 分かってはいても、私はどうしても最低1万文字前後となり現在も読んで頂いています方々には感謝しかありません。本当にありがとうございます。



印象


 前書きと称したご挨拶はこの辺で。

 さて、さっそく本題ですが(これもネットでは基本。主語を前にしないと直ぐにこのページタグは閉じられる。更に言えばタイトルで解るようにしないとダメになった最終形態が、今、流行のあの長い文章タイトルとなりました涙)

 本題。

 『印象に残るもの』

 
って、なぜ違うのか、です。
 この「違い」とは、人によって違う。年齢によって変わる。気分や感情でも異なる「違い」です。

(ここからは哲学的、形而上学的な話になります。適当に開いたという方は全然、閉じて貰っても構いません。ここまでありがとうございました)

 本作、二人称小説『あなた』の初期に書いた【~山着~】⇩のテーマでもありました「何故か恐怖するモノ」の感覚に近いのですが、~山着~では「因縁」や「前世」「宿命」としての「縁」として取り扱いました。


 ここでは逆、とも言えますかね。「興味」「印象」「記憶」「好機」など。
 なぜか気になるとか、なぜか何年後も覚えている事象、物、人など、”あなた”にはありませんか?
 ふと口ずさんでいる昔のCMソング。ガムやキャンディーの味。消しゴムや匂い玉の香りなど。

 好きだった、好きになった事には「過剰な興味」を示し、追い求めていますよね。それは表層的と言いますか現在進行形と言いますか、近い記憶や影響が強いと思います。ミッ〇ィーがかわいいからウサギも好き。背が高いからカッコいい、低いから可愛いなど。

 好きとか愛ほどでは無く「印象的」です。

 その元とは、幼い頃からの深層心理に染みつくように残った記憶なのか、夢で見た光景だったのか。幼稚園や保育所で優しくしてくれた先生に似ているからか、怖かった親戚の叔父さんに似ているのか。

 海が落ち着く人がいれば、恐怖を感じる人もいます。これも初期【~海異~】で描きました。⇩


 山もそうですね。家も、アウトドア派インドア派がいます。

 これらは全てが環境ですか?

 分かり易い範囲ですと、何か良かったこと、嫌なこと、嬉しかった、悲しかったことが若干あったからではないでしょうか。それら全ての『印象』の結果、集大成でありますが・・・それは本当に・・・・・・

『あなたが判断していますか?』


遺伝子?前世?


 洗脳教育、偏向報道、印象操作など、現代の社会では不穏な出来事と反吐が出るようなことを考えて実行しているモノが多く居ます。

 美的感覚などが、昔からよく言われていますね。美人、イケメンの基準なんて国、時代、世代が変われば全然違います。貧困地や野生地ではふくよかであればある程よいとされ、金持ちである、狩りが上手い、家畜を多く飼っているなどの象徴。
 裕福地では逆に欲に負けている強欲さの象徴とされる傾向にありますよね。

 これらもまだまだ表層的なもの、主に環境が原因である。

 次に、更に深層へ。

 なぜ多くの人が「ゴキブリ」「虫」を嫌うのか。これも最近の有名な話では

「太古、ジュラ紀などの恐竜時代、空気中の酸素濃度が濃かった大昔では甲殻類が哺乳類よりも大きく、人類の祖が捕食されていた名残、本能に組み込まれた恐怖心」

 だという説。

 蜘蛛やサソリ、ヘビなど、毒や命の危険がある小動物を怖がるのは当然です。しかし、くだんのゴキブリやカエル、トカゲとか・・・そう言えば、昔の知人に頭上を飛ぶ平和の象徴「ハト」を怖がる子がいました。理由を聞いても、本人にも分からないそうです。不思議ですね。

 ・・・前述のこういった説が事実だとすれば、それは経験や記憶では無くもはや科学的には『遺伝子』オカルト的には『前世』としか言いようがありません。

 幽霊やUFO、神や宗教、天国や地獄、UMAや恐竜。
 見た事も無ければ、信念的に信じない人もいます。しかし、前述の個人的な「印象」は、どのような屈強な人ですらあるはずです。

 閉所、高所、昆虫、爬虫類、未確認物体、天災、人災などから、
 食べ物、景色、文化、場所、音楽、絵画、ファッションなどまで。

 その記憶や感情に残る「印象」とは、まるで「呪い」のようではありませんか?


のろいとまじな


 「呪い」「呪詛」とは、現代では殆どが悪い意味での解釈が支配的です。しかし、古代『言霊信仰』では総称が「祝詞のりと」「る」の語源が呪いと同じであり、悪しき事としては「祟り」とし、「祈祷」「呪術」も”呪うこと”なのです。

 科学的に分かり易く言えば「プラシーボ効果」と「ノーセボ効果」みたいなものですかね。こちらはプラシーボが有名で聞いたことがある方が大半だと思われますし、ノーセボ(ノーシーボとも言う)は聞いたことが無い方もいらっしゃるかと。それと同じようにまたどっちの「印象」が強く大衆的に言い伝えられたか、によります。

 日本には「魏」「唐」「呉」などからだけでなく、南は中東、東南アジアから、北はモンゴル、アラスカなどからと様々な人種が入ってきています。なので一概に一筋縄ではいきませんが、悪い意味での「祟り」「嫉み」「恨み」が強く、「呪い」を「祟る」そういった良くない使い方をする部族が、また多く居たのかもしれません。

 どのような経緯であれ「印象的」としてあなたの中に潜むモノは、その後の人生にどのような効果、もしくは畏怖を与えていくのでしょうか・・・・・・

 頭の中に潜むモノ、心の中に潜むモノ・・・あなたのどこに潜伏し、いつ現れるのか。それはずっと付きまとい、ふと定期的に思い出す。あなたが死ぬまでずっと・・・ずっと・・・・・・

 私のこの『あなた』の物語・・・どれが「印象的」でしたか?

 『あなた』は既に、呪われている・・・かもしれませんね・・・・・・


大義


 恋愛映画やノンフィクション、ファンタジーや歴史書。これらは今後のあなたに良い意味での「印象」を与えるでしょう。参考に、真似し、目標としての一つの「呪い」「祈祷」を与えられ、それがあなたの現実世界にどう反映されるかでしょうか。勿論、それもあなた次第ですが、上手く行くようにきっとあなたは「祈る」ことでしょう。それもまた「呪い」です。

 ホラー、サスペンス、怪談、SF・・・・・・

 これらに”罹る”「呪い」とは、注意喚起、安全祈願、不運への回避、です。

 昔のお笑い番組の多くに笑い声のSEラフトラックが入れられていることに気が付いて見ている方はどれだけいらっしゃるでしょうか。生放送やライブでは「笑い屋」を雇って前列に配置しているほど。
 これは実際には見ている観客に「ここで笑うんだよ」と教えるための、一種のお笑い教育でもあるのですが、これもまた「呪い」と言えます。

 ホラーとは、その意義と同じであるべきであり、これが危ない、これがダメよと、そして危険な物、人物がどのような者で何なのかという警告であり、一部にある映画やコメディのように国や宗教観のプロパガンダや印象操作を意図とした目的に使うべきではないと思います。

 戦争ものでも同じです。クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」など、両方の視点から描かれることは、実際や詳細は置いといて、その姿勢や思考が非常に素晴らしいことだと感じます。

 個人的な視点や主観。勿論、作者や現場の被害者が感じたこともそれはリアリティとして取り入れることはあります。エビデンスやリソースに拘りつつある現代ですが、それら「シギント」も「捏造」されていれば意味は成しません。偏見や誘導が無い正直なレベルでの「ヒューミント」は尊重すべきでありますが、それすらも捏造している組織や団体に騙されないようにしなくてはなりません。

 ホラーだからとか、野蛮だとか、汚い、グロい、といった「潔癖」な世界とは、子供の教育として「何が熱いのか」「どうすると痛いのか」「傷付くことの苦しさ」などを教えずに育てた子と同じく、私は最も恐ろしくて残酷な世界、社会だと思います。

 「笑い」が分からなければユーモアは育ちません。
 火が熱いと知らなければ、火を恐れずに致命的な大火傷するかも。
 ナイフが切れることを知らなければ、オモチャにします。
 怪我をすることもなければその「痛み」が分かりません。
 危険人物はどのような人か。知らなければ勝手に着いて行っちゃいます。

 これらも「潔癖」「過保護」「過干渉」といった『呪い』です。

 『あなた』は知らず知らずのうちに、こういった「呪い」をバラまいてはいませんか?

 ほら、恐ろしい。くわばらくわばら・・・・・・



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