無駄なものほど愛おしい
私には悪い癖がある。
例えばこの書き出し。何の前置きも説明も挨拶も無しに唐突に始まる。いきなり文章が始まるのはどちらかというと読みにくいのではなかろうか。そう思うなら改めろという話なのだが、気付けばこういうスタイルになる。過去の記事を振り返ってみても、簡単な前置きくらいしか設けていない。その前置きですらいきなり話が始まる。
まあまあそうは言っても文章ならしょうがないだろう。などと擁護してくれる方が居るかは分からないが、居ない方が有難い。私は口頭でも基本的に前置きは無い。
余裕があるときは試みる。「ちょっといいかな」「さっきのことなんだけれど」「手空いてる?」などなど、声をかけようと決めてから声掛けのインデックスを参照し、その時々に応じて使い分けている。
ところがそう余裕があるときばかりではない。やることが山積みで一々会話などしていられない、けれど確認を取らないとどうにもならない、みたいなときは、いきなり「さっきこれやった?」「この件どうなってる?」「手空いてるならこれやって」といきなり話しかけてしまう。別に向こうもそこまで戸惑うことなく応じてくれるからいいと思っていたけれど、案外そうではないのかもしれない。
「日本語の個性」という本にこんな体験談があった。
シンポジウムのようなものに参加したときのこと。一人当たりの持ち時間が3分程しかなく、著者は前置きなしで話を始めた。そうしたら、次の話者に「先程の方はこう仰っていましたが」と全くの頓珍漢を語られた挙句、聴衆にも頷いている人がちらほら居てショックを受けた、というエピソードだ。
後日友人にその話をしたところ、「いきなり本題に入るからだ」と指摘された。時間が無かったし無駄なことは話せないと反論する著者に対し、「でも伝わらなかったんじゃ意味がない」と友人はむべも無い。結局「無駄」の重要性を考察して、その話は終わる。
言われてみれば私も「Aという手順でBをして」というようなことを告げたらまるで見当違いのことをやられた事が何度かある。結局もう一度説明しなければならないし、間違えたことに対するフォローもしなければならないので、結局自分の負担が増える。そういうことがある度に、伝え方が悪いのだろうかと思っていたが、もしかしたら前置きが無いせいで向こうの聞く準備が出来ていなかったのかもしれない。
このように、一見無駄と思われるものでも実は役に立っていることがある。
例えばフィラー。これは「あのー」とか「えーと」のような、会話を埋めるための繋ぎに使われる意味の無い言葉だ。
……と、思っている方が大半であろう。実はこの「あのー」とか「えーと」にも、立派に役割がある。「えーと」は「今答えを考えているので少し待って欲しいという表明になる。「あのー」の場合はもう少し限定的で、「今どう伝えようか考えているので少し待って欲しい」というときに使える。単なる場繋ぎという訳ではなく、立派な意味があるのだ。
私は出来るだけ余計な労力を払いたくないと願うと同時に、こうした一見無駄に思えるが実は意味のあるものが好きだ。勿論意味がなくたって別にいい。無駄なものほど愛おしい。
そもそもこの世の中は無駄なものだらけだ。娯楽の大半は「無駄なもの」に区分けされるだろう。私の愛してやまない小説ですら、実生活には直接役には立たない。登場人物達のドラマに心動かされ、物語を咀嚼し、自分の価値観に反映させて初めて「役に立つ」と言えるだろう。無論、そのように頭でっかちに考えなくとも、ただ存在しているだけで素晴らしいし価値がある。私にとっては全くもって無駄などではない。
昨日の記事でも軽く触れたが、私は何でもかんでも「無駄」と評して切り捨てる姿勢はあまり好きではない。所謂「追放系」と呼ばれるジャンルのような、無駄だと思っていたものが実は莫大な価値を持っており追放した側が痛い目を見る、というような大逆転劇を期待している訳ではない。
ただ、どんな微細な価値だとしても、誰にも価値を見出されなかったとしても、そこに価値をつけて拾い上げるような人に憧れるし、そう在りたいと願ってしまう。
というわけで私も前置きのクッションを設けてから会話をしてみようと思う。が……、結果はあまり期待しないで欲しい。無駄ではないことと、そこに価値を見出せない、あるいはそれ以上のデメリットを感じてしまうこともまた、両立するものだから。
今日も私の「無駄な」文章を読んでいただいて有難う。少しでも貴方の中に価値を見出すことのできる記事となったのであれば幸いである。