「華氏451度」を通して考える、本が語ることとは
「華氏451度」という作品はご存知だろうか。
レイ・ブラッドベリによる著作で、舞台は近未来のディストピア。どこの家庭にもテレビが埋め込まれた壁が複数枚あり、一緒に暮らす家族よりもテレビを眺めて暮らしている。本は人心を惑わすとしてありとあらゆる本が禁制品となり、「消火士」たるファイアマンは本を焼き払う「昇火士」に実態を変えた。皆が皆画一化された意見しか言わず、少しでも「普通」から外れた人間は異端の目で見られ、警戒される。そしてそんな世界は卵の薄皮のような平和に包まれていて、すぐ外側には戦争の気配が迫っているが、人々は何の危機感も抱いていない。
どこかで聞いた話だと思っただろうか? きっとそれは気のせいだろう。
今日は1950年代に書かれた本書が現代を痛烈に皮肉っていることに関して語ろうという訳ではない。鼻先を掠めるくらいはするかもしれないが、本題はそこではない。
本日のテーマ。それは、「本は何も言ってない」は本当か、ということである。
このフレーズが出てくる場面
本題に触れる前に、少し解説を入れておこうと思う。ストーリーに触れることになってしまうが、結末までは語らないので安心してほしい。
まず、この本の主人公ガイ・モンターグは本を燃やすことを生業としているファイアマンである。彼はファイアマンとして誇りを持って……否、本を燃やしたときの炎を楽しんでいたくらいには、自分の職業が好きだった。
そんな彼は、とある少女との出会いと、仕事中のある事件により考えが変わる。そしてあろうことか、本を所持していると密告された家から本を一冊、拝借してしまうのだ。
この作品において、本は所持しているだけで重罪であり、所持が発覚すれば問答無用で本を燃やされ逮捕されてしまう。本来そういった「犯罪者」を裁く立場にある彼とて例外ではない。
彼はこの事件の翌日、体調を崩し仕事を休んだ。どうにかもう二度と職場に行かなくていい方法を考えていると、彼を(表向きは)心配して訪ねてきた人物が居た。彼の昇火隊の隊長であるベイティーだ。
この世界の大多数は自分の頭で考えることを忘れてしまった。しかしベイティーは数少ない思考者だった。彼は世界が何故こんな風になったか、我々の職業がどういうものかをモンターグに説き、彼に発破をかける。恐らく、ベイティーにはモンターグの謀反の心がお見通しだったのだろう。
そのときベイティーは、こんな言葉を投げかける。
その後いくつか言葉を交わし、彼はモンターグの家を出て行った。
この後も物語は続いていく訳だが、私はこの「本は何も言っていない」というフレーズがずっと気になっていたらしい。
らしいというのは、この本を読んだ当時は暫く脳内に留まっている感覚があったのだが、暫くしたらすっかり姿形をひそめてしまっていたのだ。
そしてまた、以前のように頻繁に本を読むようになってから、私の頭の中に、再びこの言葉がちらつくようになったのだ。
本を読むことは不幸なのか?
作中に出てくるファイアマン達は何も考えていない人間達のように思える。それはモンターグも同じことだ。
しかしベイティーだけは違う。彼は彼なりに本が持つ悪辣さを読み取り、本によって人が振り回されることが無いように本を燃やす、という彼なりの信念がある。
本を読んだことがあるが本を嫌悪する人物として考えてみると、恐らく彼は本に対して何かしらの期待をしていたのだろう。この世の真理とか、美しい言葉とか。しかし実際は、人によって言うことが違っていたり、人を傷つけるためだけの鋭いナイフのような言葉ばかりが踊っていた。結果、心の平穏を乱すだけの結果に終わった。故に、彼は本を見限り、こんなものが存在してはいけないとファイアマンとして誇りを持って仕事をするようになったのだろう。ベイティーを主役に据えた視点も気になるところだ。
このように、本には己の価値観を揺り動かす文言が書かれていることもある。というか、大体の本がそうである。中には出来の悪い粗悪な本も存在する。立場によって書かれていることも違うし、同じことをテーマにしていても全く反対の結論に辿り着いているものも存在する。
確かに、何を信じれば良いか分からなくなる、という意見が出るのも分かる。本に答えがあると信じて読めば、幻滅してしまうのも無理はない。だからといって、理解は出来ないが。
「本は何も言ってない」の真偽
結論から言って、私はベイティーの主張には同感だ。本は何も語らない。それらしい文字は踊っているけれど、それだけだ。
そこに意味を見出し、文章を一つ一つ吟味、精査し味わって、己なりの回答を見つけ出す。答えは本の中になど、最初からないのだ。
あるとすればそれは、著者自身が導いた著者なりの答えだ。当然、人の数だけ答えは違うから、答えは本の数だけ存在する。全ての本が真理だと考えてしまったが最後、永久に本に振り回される人生だ。「華氏451度」の世界の住人は本に答えを求め、失望し、本から離れたところを指導者達につけこまれてしまったのだろう。
そうではないのだ。本に答えは載っていない。答えは自分の中にしかない。本は自分の中にある唯一の答えを見つけ出してくれる、或いは見つけ出すための知恵を与えてくれる、一つの手段に過ぎない。
私が一々こんな高説を垂れなくとも、聡明な読者の方々はもうお気づきだろうが。
私が本を読む理由は様々ある。同じ考えの人に出会えるからとか、自分では思いつきもしないような文章表現に出会えるからとか、本当に様々ある。
しかし、一番の理由は、思考に必要なピースを揃えてくれることである。
閃きとして考えが降ってくることはあるが、それは元々自分の中にあったものだ。元々無い考えはどうひねり出したところで生まれない。食材が無ければ料理は作れない。
私は考えることが好きだ。というか、呼吸をするのと同じくらい自然に思考しているから、好きとかそういう次元はもう超越している。思考は私の生業だ。
生業を補助してくれる存在を、どうして嫌うことが出来ようか。
「華氏451度」で最大の悪とされているのは本ではない。思考である。故に思考を助長する本が忌み嫌われているのである。
モンターグはそんな世界で思考を身につけてしまった。あらゆることが気になって仕方がない。どうして世界はこんな風になってしまったのか。どうして皆本を読まなくなってしまったのか。どうして、どうして。
そんな彼はこの先どうなってしまうのか。そして、この本の世界はどうなってしまうのか。正直少し難解というか、読みづらい部分もあるが、是非余計なことは考えず読んでみて欲しい。
そして今の自分や身の回りの人々を、この本の世界だったらどういう立ち位置になるか考えてみて欲しい。私の場合は間違いなく本の秘匿者になるだろう。
その後、貴方にとって本とは、そして考えるとはどういうことか。今一度、真剣に考えてみて欲しいのだ。現実と照らし合わせてどうだとか、そういう小難しい見解でなくていいから、あくまで「自分にとって」の狭い範囲で構わない。
真剣に考えて出した答えは、きっと貴方の一生の宝になるはずだ。