憩いの場に潜む、私の嫌いな言葉たち
何が嫌いかより何が好きかを語りたい人生だった。
でもそれをするには嫌いなものが多すぎる。
勿論好きなものごとも山とあるけれど、そうじゃないものに目を向けずに好きなものごとだけを見ていられる程盲目にはなれないしなりたくない。
そういう訳で、今日は一番好きな場所で嫌でも目につくあの言葉たちについて触れる。
私が一番好きな場所。一人になれる自宅と同じくらい居心地の良い場所、それが本屋である。
図書館もいいが、やはり私が好きなのは書店だ。以前「書店浴」をしている人の呟きを見たことがあるが、首が痛くなるくらい頷いてしまった。書店でしか得られない何かがある。電子書籍やネットショッピングが普及しているし、ついそちらを利用していることもあるけれど、やはり私は紙の本と本屋さんという存在が大好きだ。
書店で何を見るかと言われれば、やはり小説であることが多い。あとは創作技術や科学の本、その他専門書や資格取得系、辞書、参考書、漫画等々、自分では結構広い範囲を見ていると思う。あまり興味のないジャンルでも一通り目を通すことはある。それを加味した上でもあまり見ないものはガイドブックやファッション雑誌辺りだろうか。
どんな本を見るかという基準や優先順位は行く度に変わるのだが、それでも小説だけは毎回チェックしているように思う。どんな本が売り出されていて人気があるのかは、やはり興味がある。
そうして毎回小説の棚を見ていて思うのだが、どうしても目に付く嫌いな言葉が二つある。
それは「泣ける」と「どんでん返し」だ。前者は「号泣必至」、後者は「ラスト〇ページの衝撃」みたいな言葉で表記されているときもある。似たような表現は全て等しく嫌いなのだが、ここでは「泣ける」と「どんでん返し」で統一する。
どんなにタイトルや帯の煽り文、あらすじ等々、興味を惹かれる作品であっても、これらの文言が含まれているだけですっと冷める。どれだけ名作であったとしても余程のことが無い限り読もうとは思わない。
販売戦略的にしょうがないのだろうが、本当にこれらの煽りで売り上げが伸びるのだろうか。むしろ下がっているんじゃないか? バイアスがかかっているだろうことを考慮しても、身の回りやネット上でもこれらの文言が嫌いな人間はそこそこ居るはずなのだが。不思議だ。
実際、一時期これらの言葉に埋め尽くされていたせいで本屋通いを辞めたことがある。ここまでの人間はあまり居ないかもしれないが、少しでも共感してくださったのなら是非最後まで読んでいって頂きたい。
何がそんなに嫌いなのか
さて、理由も無く嫌いだと喚く行為はあまり好きではない。勿論明確に嫌いな理由が存在する。
1.言い方が嫌い
これは特に「泣ける」系列の言葉に関しての話。別に泣きたいがために本を読むわけではないし、泣くかどうかは読む人の勝手だろう。感動巨編とかならまだ可愛いものだが、「泣ける」なんて言葉を選んだが最後「お涙頂戴ストーリーです」と喧伝しているようなものではないか?
それに泣ける話を求めている人みたいに思われるのも腹立たしい。これは私の自意識の問題であるので、「泣ける」に罪をかぶせるのも可哀想かもしれない。
そもそも私の中では泣くという行為は湧き上がる感情の昂りが抑えられずに雫に姿形を変えて表出する現象だと思っているので、可能系で表記するのは違和感しかない。デトックス的に涙を流したい人も居て、そういう層に向けての言葉なのかもしれないが……。
2.決めつけが嫌い
こちらは「どんでん返し」系列の言葉について強く言えることだ。
驚くかどうかは私の自由だし、何故騙されること前提で話を進められなければならないのか。大体こういう本に限って簡単に予想がついてしまうオチだったり、意外性が強いだけで話の整合性もカタルシスも魅力も何も感じられない作品だったりすることが多い気がするのは気のせいだろうか。
……少し言い過ぎたかもしれない。気に食わない方は批評家気取りかと嘲笑っておいてほしい。
3.ネタバレが嫌い
「泣ける」「どんでん返し」その他派生形の煽り文全てに言えることだが、話の中身に予想が出来てしまう。面白そう、魅力的だ、どんな話なんだろう。それらのワクワクを抱いて物語の世界に没頭したいのに、これほど最悪なことはない。
ある程度中身が分かった方がいいというのは勿論だ。「象は鼻が長い」というタイトルだけ見て子供向けの本かと思ってみたらガチガチの日本語文法の本だったというエピソードがある。タイトルだけでは中身が分からない。買ってから思った本と違った、なんて事態はできるだけ避けたい。
故にこれらの煽り文が分かりやすく内容を示していて、欲しい人に届く仕組みになっているのは理解している。それでもやはり、これらの文言を見ると「サンタクロースは実在しない」と言われた子供のような気分になってしまう。
加えて、そういう煽りがなくとも、あらすじで事足りるのでは? と思ってしまう。というか、ジャンルが分かれば事足りるのでは? と思ってしまう。ホラーやミステリーは大体衝撃的な結末があるし、愛を主題に置いた作品には感動的な作品が多い。「泣ける」「どんでん返し」なんて遣わなくたって、もっと魅力的な宣伝方法があるのではないだろうか。
以前購入した本に「近畿地方のある場所について」(著:背筋、KADOKAWA)というものがある。表紙側の帯には「見つけてくださってありがとうございます。」の一文、裏表紙側の帯には「オカルト雑誌の特集のために情報を集めていたら友人が居なくなってしまったので、この本を読んでどうか情報をください」という著者の言葉とあらすじを兼ねた文章が記載されていた。
手前に湖、奥には山と赤い空、その中心に小さく構える不気味な鳥居らしきもの。文章と装丁のおかげで、ホラーということは推測できた。実際の表現は違うが「どうかこの本を読んで」という部分に違和感を覚えた。しかし、それ以外の情報は探れなかった。私は猛烈にこの本のことが気になり、購入後すぐに読み始め、あまりの恐ろしさに震えあがった。何度も読みたいが怖いから読めないというジレンマ。
話が少し逸れてしまったが、このように情報はシンプルな方が興味をそそられる。余計な情報は必要ないと思う。
ライトノベルやなろう系のように、長文である程度中身が分かるタイトルが横行している昨今、こういう考え方の方が古いのかもしれない。それでも私はこと小説に関しては、情報量過多よりは少なすぎる方がいいのではないかと思ってしまうのだ。
以上、ずっと思っていたことを吐き出してみた。
何故改めて記事に起こしたのかといえば、学生時代好きで読んでいた作家が「最泣作家」として、特に心に残っている作品に「泣ける本」として紹介されていたからである。
確かに感動的な話が多いし、多感な時代をかの方の本のおかげで乗り越えることが出来たことも涙してしまったことも事実だ。それは認めよう。でもそんな紹介の仕方はしないでくれ!!
思い出を汚された気分だ。受け入れられない自分に一番腹が立つ。
ここまでこき下ろしておいて言うのもなんだが、「泣ける」や「どんでん返し」を目印に本を購入している方が居たら大変申し訳なく思う。あくまで私は嫌いというだけであり、貴方の感性を否定している訳ではない。「情報少なすぎて何言ってるか分からないよりマシ」というような考え方もあるだろう。
そういう考えをお持ちの方は、是非私にぶつけていただきたい。「こういう考え方もあるのか!」という発見をしたい。出来ることならこれらの言葉だって受け入れたい。
私だって面白そうな本を素直に読んでみたいのだ。煽り文の一つや二つで躊躇するような人生は、そろそろ終わりにしたいと思っている。だから、是非力を貸していただきたい。