ラスボスを手懐けろ~劣等機能を克服したい~
「『今、ここ』ってなんだろう?」
瞑想をする度にそう思う。
瞑想とは、「心を静めて無心になること」(Wikipediaより)。古くから行われている行為で、形態は様々あるが、現代で瞑想と言えば「マインドフルネス」を指すことが多い。
自分の身体や呼吸に意識を集中させ、出来る限り無心の状態を保ち、「今、ここを生きている」という感覚を養う。そうすることで集中力が増し、精神が安定する。他にも睡眠の質が向上したり、自律神経が整いやすくなったりと良いことづくめだ。
常日頃から心がささくれ立っているので、私も瞑想の力を借りて穏やかな日々を過ごしたい。そう思って実践しているのだが、中々上手くいかない。
瞑想のやり方はシンプルだ。良い姿勢を取り、軽く目を瞑り、自分の呼吸に集中する。雑念が浮かんできても考えを追わず、自分の呼吸に意識を戻す。これを任意の時間だけ行う。言葉にすればこれだけのことだ。
だのに一等難しい。
呼吸に集中すると、体から意識が離れていくような感覚に陥る。自分の身体から離れて、空の彼方へ飛んで行ってしまいそうなイメージを抱く。
そんな状況では自分の身体の動きに注目することも出来ないので、慌てて意識を引き戻す。
いざ身体の動きに注目しようとすると、他人の身体を観察しているような感覚に陥る。自分事に捉えられない。非常に居心地が悪い。
リラックスするための瞑想なのに、終えると疲弊しきっている。
そして思う。
「『今、ここ』ってどう感じたらいいの?」と。
「今、ここ」を感じることに苦手意識があるのには理由がある。理由を押し付けている、と言う方が正確かもしれない。
16personalitiesによれば、私のMBTIはINTJである。MBTIにはそれぞれ得意なことと苦手なことがあり、INTJであればSe、外向感覚という機能が一番弱い。
外向感覚とは今起きている現実そのもの、五感で感じること、「今、ここに居る」という感覚に意識を向ける機能のこと。これが弱いと、目の前の出来事が他人事に感じられ、意識が空想の中に逃げ込みやすい。例えば花を見たとき。花そのものの美しさや芳しさよりも、この花は自生しているのか、それとも誰かが植えたのか。どのような生態でどんな実をつけるのか、という花の情報に意識が向く。
自分のことでもとことん客観視して観察出来ることがINTJの強みでもあるが、瞑想中はそれが良くない方向に働き、他人事のような感覚に陥るのでは、と、勝手に仮説を立ててみた。INTJの皆様はどうだろうか、瞑想。得意だろうか?
MBTIはよく当たる心理テストのような扱いをされがちだが、実際はそれぞれの得意なこと、苦手なことを知り、自分の苦手を克服していくための優れたツールだ。ありもしない相性だの適職だので一喜一憂したり、自分や他人を型に嵌めるためのものでもない。
とすれば、INTJである私は外向感覚、「今、ここ」の感覚を鍛える必要があるといえる。INTJは優れたアイデアを創造することに長けている(実感は無いがINTJの特徴としてはそうらしい)が、外向感覚が弱いままだと実用性に乏しい机上論に陥りがちなのである。
自分の考えを一蹴されることが大嫌いなINTJにとって、机上論と笑われるのは屈辱に他ならない。何としても強化したい能力である。
「今、ここ」が弱い故に発生する不具合は、他にもある。未来のことばかり考えて悲観的になったり、常に何かに追い立てられているような気になったり、成長した実感を得にくかったり。全て私が感じたことである。
正直INTJないしINFJ(同じく外向感覚が一番苦手)の生きづらさの根源は「今、ここ」の実感の弱さだと思っている。そうでなくとも、苦手を苦手のまま放置しているのは気持ちが悪い。
とはいえどうしたら外向感覚を鍛えられるのだろう。調べるといくつか外向感覚の鍛え方がヒットするが、正直なところ心惹かれない。苦手な機能を駆使する行為というのは、往々にして嫌いな行為と直結していることが多い。何かいい方法は無いだろうか?
冒頭で軽く触れたが、瞑想というのは様々な形態がある。ヨガを行いながらだったり、食事を摂りながらだったり。とにかく「今、ここ」に意識を集中し、雑念が発生しにくい状態をキープするのが目的なので、形態も様々生まれたのだろう。
しかし、私のような「考える」ことそのものに楽しみを見出すタイプは、雑念がある方がむしろ精神的に安定している。どんなに辛く苦しい考えと向き合っていたとしても、考えないことを強いられるより余程いい。
そもそも瞑想には不向きな性格をしているが、一つ、ぴったりな物が存在する。
それは「書く」瞑想である。ジャーナリングとも呼ばれている。方法は単純で、紙とペンさえあればいい。とにかく頭に浮かんだことをなんでも書き出していく。書き出す際、変に纏めようとしたり、気取った書き方をしたりするのは良くない。自分の思考プロセスを理解しづらくなるし、生の感情を捉えにくくなってしまったりするからだ。
不思議なもので、頭の中にぐるぐると回っていた思考を書き出すだけで、かなりすっきりする。そして、「ああ、自分ってこんなこと考えてたんだ」と気付くこともある。自分の言葉がノートを埋め尽くしていく時間、ペン先が紙を滑る音、ペンを握る感触、紙の触り心地。それらを一つ一つ噛みしめながら、自分の思考や感情も咀嚼していく。正に至福のときだ。
もともと「書く」という行為が好きだから、そう思うだけかもしれない。しかし、嫌いだったり慣れなかったりする行為を無理矢理行うよりは余程いい。
そして、「書く」瞑想にはもう一つ、副次的効果もある。
さらっと書いたが、自分の感情や思考が可視化される、ということである。
INTJが一番苦手としているのは外向感覚だ、というのは先にも述べた通りだが、二番目に苦手なものはFi、内向感情である。
内向感情機能が弱いと、自分の気持ちを蔑ろにしたり、自分が今どういう感情を抱いているのかすら分からなくなったりする。これは私のことだが、全ての物事を「論理的かそうじゃないか」「客観的に見て正しいか正しくないか」で決めてしまう。結果、主観というものが分からなくなり、何が好きで何が嫌いかの境界線が薄れ、全ての物事に嫌気が差す。
非常に残念なことに、我々は機械ではなく人間である。適度に感情の居場所を認めてやる必要がある。
そこで、「書く」瞑想である。文字起こしする内容は自分の内面世界であるから、感情も排出しやすい。文字起こしされているので、隠れた感情にも気づきやすい。
「書く」瞑想は、外向感覚だけでなく、内向感情を鍛えることにも繋がるのである。なんと画期的なのか。
……と、「書く」瞑想を紹介したが、白状しよう。
私は「書く」瞑想をしたことがない。正確には、幾度となくノートに自分の思考・感情を書き散らしてきたが、それを「書く」瞑想のつもりで実践したことは一度たりともない。単純に、書かないとやっていられないから書いていただけだ。何の気なしに行っていたことが、実は自分をこの世に繋ぎとめる大事な繋留点だったらしい。こりゃ驚いた。
いくら書き散らしたところで、私は自分の感情が他人の感情と同じくらいベールに包まれているように感じるし、すぐに「今、ここ」から逃げて思索の世界に入りこんでいる。正直なところ効果があるのかないのか分からない。
しかし、忙しさにかまけて書き出すことを怠ると、すぐに精神に変調をきたす。とすればやらないよりはまだマシなのだろう。「これが最善策です!」と胸を張ってお勧めしたかったが、実感としてはその程度である。何とも頼りない。
とはいえ「今、ここ」を強化するツールとして以外のメリットも大いにある。「自己成長のため!」と気負わず、気軽に自分の気持ちを書き出してみてほしい。
きっと、まだ見ぬ「あなた」に出会えるはずだ。「わたし」がそうだったように。