INTJの天敵:外向的感覚

 真面目に研究している方については申し訳ないが、MBTIというのは言ってしまえば「よく当たる心理テスト」くらいの認識である。恐らく大多数の人もそう感じていると思う。
 しかしMBTIというのは人間を型に嵌めて考えられるようにするものではなく、自分の特性を見極めて、自分の得意でないもの、不得意なもの、排除したくなるようなものへの理解を深め、更に自分でもその苦手を克服する一助を担うためのものであるらしい。
 実際私にとって心惹かれるのは世間で面白おかしく書かれているあるあるやステレオタイプよりも、各MBTIの得意不得意やそれをどう活かすか、克服するかといった物事に興味がある。今まで所感を書き連ねてきたのは、思うところがあると反論せずにはいられないという私自身の性格であるからして許してほしい(今後も発信していく自信しかないが)
 得意不得意とはなんぞやと、詳細を知らぬ諸氏も居るだろうから簡単に解説をする。結果だけ教えろという方は読み飛ばしてくれて構わない。

心理機能の考え方

 MBTIのアルファベット四文字には、それぞれ、

  • E(外向)⇔I(内向)

  • S(感覚)⇔N(直感)

  • F(感情)⇔T(思考)

  • P(知覚)⇔J(判断) 

 という意味がある。興味関心の働く向きを内向or外向が担当し、物の見方、判断の仕方を中二つ、その人が考えた物事を外界へ発信する際、知覚or判断どちらを重視するのか、という結果を並べたのがINTJやENFPといった文字列になる。あくまで傾向であって、N型だからといって感覚機能を使わないわけではないし、色々な人生経験を積んでいく中で重視する機能が変わることもある。時間をおいてMBTIを調べてみると結果が変わった、という方が居るのはそのせいである。
 あくまでどちらの機能を重視するか、という目安のものだが、やはり重視するには理由がある。よく使う機能の方が慣れ親しんでいて使いやすい。逆にあまり使わない機能の方は、いざ使おうと思ってもぎこちなかったり、上手く使えなかったりする。手入れをしていない道具を準備なしに使おうとするのと同じ。
 そうして各アルファベットを自身の傾向に合わせて並べてみると、自分の得意不得意が見えてくる。二つ目の感覚or直感と三つ目の感情or思考は、それぞれ知覚or判断の傘下に入る。自分のMBTIの四文字目がPかJかで、自分が感情or思考を真っ先に考えるか、感覚or直感に頼るのかが分かる。そこに一文字目の外向or内向、つまり自分の興味の方向性が加わることで、自分が真っ先に頼る機能が外向の感情だったり、内向の感覚だったりということが分かるのだ。
 分かりやすくするためにINTJを例にとると、INTJは判断機能を使う傾向にある。ということは感覚or直感のどちらかを重視しやすいということになる。文字列を見ればN(直感)を優先する傾向にあるので、INTJが真っ先に頼る機能(主機能というらしい)は内向的直感と導き出される。
 この主機能というのはこれ単体で作用している訳ではなく、秘書のような補佐官がつく。これを補助機能という。補助機能は主機能は興味関心の向きが逆になる。INTJでいえば外向的〇〇となるわけだ。この空欄に入るのは何かといえば、最後に残った文字列のT(思考)となる。
 そして三番目が代替機能、四番目、一番苦手となる機能が劣等機能である。代替機能は補助機能の逆を取り、劣等機能は主機能の逆を取る。


要するに


 INTJの心理機能は、
主機能:内向的直観
補助機能:外向的思考
代替機能:内向的感情
劣等機能:外向的感覚

 ということになる。
 世間でよく言われる性質については、これらの機能が上手く働いていたり働かなかったりしているときの行動をまとめたものと思われる。これらの発達については個人差があるため、世間一般に当てはまったり当てはまらなかったりするのも当然のことだろう。
 非常に前置きが長くなってしまったが、今日は劣等機能である外向的感覚について話していく。

外向的感覚とは


 簡単に言うと「いま、ここ」を生きている実感のことだ。五感を強く働かせたり、ありのままを読み取ったりする能力のこと。
 無意識に物事の裏側や真意を量ろうとするINTJ(というより内向的直観)が確かに苦手とすることのように思える。事実、私も非常に苦手である。
 なにせ息をするように先のことを考えてしまうものだから、「いま、ここ」と言われても次の瞬間には明日のために何をしよう、終わらせておくべきことは、明日のタスクは、来週の予定は、と先へ先へ心が進んでいってしまう。元気なときはそれでいいのだが、如何せん人間というものはそんなに丈夫には出来ていない。特に私の場合精神的体力が人より低いので、すぐに枯渇する。枯渇するとどうなるかというと、外向的感覚が悪い方に働きはじめる。
 どうなるのかといえば、物凄い短慮になる。物事の裏の裏の裏まで探ろうとし、先の計画を練ることが大好きなはずの人間が、一つの証拠から全てを決めつけたり、意固地になって不必要な物事に執着し出したりする。具体的に言えば多角的に物事を見ず一方的に怒ったり、ゲームのレート(数字)に拘って既にストレスしか産まない状態になっているのにゲームをやり続けてしまったり。
 或いは酷く現実味が無くなる。心が身体を離れていき、自分の身体の斜め後ろ辺り、俯瞰した位置から見下ろしている感覚に陥る。離人症という程でもないが、私はよくこの感覚に襲われる。
 最近になってようやくこれらが疲労が蓄積された末の結果だということが分かり、対策を練ることが出来るようになった訳だが、そうと分かる前は本当に辛かった。これのせいで自己嫌悪に陥っていたとまで思う。
 別に外向的感覚が悪いわけではない。私が上手くこの機能の手綱を握れていないだけなのだが、どうしても憎たらしく思えてしまう。天敵のように忌々しい。
 とはいえこの劣等機能(代替機能もだが)を飼い慣らさないと平穏は訪れないらしい。少なくとも自分で疲労を認識出来ず、己の忌み嫌う無鉄砲な行動に走ってしまうようになるのだ。外向的感覚を使おうとするのも地味にストレスだが、暴走したときのストレスは尋常ではない。それに私は負けず嫌いだ。習得は無理と諦める行為が大嫌いだ。外向的感覚と向き合ってやろうではないか。
 こうして意気込んでみたはいいものの、いざ使おうとしてみると、今度は自分の身内であるはずの内向的直観が邪魔をする。この項の最初に記述した通り、先読み先回り深読み、私の好物で気を惹きつけて外向的感覚を養わせてくれなくなる。こうなるとどっちが天敵だか分かったものではない。否、どちらも天敵ではなく、勝手に振り回されているだけなのだが。
 苦心しつつもいざ外向的感覚を鍛えようと思っても、正直鍛えられているのか怪しい。外向的感覚を鍛える方法を調べるとほぼ確実に「料理」というワードが目に入る。火加減の制御や包丁さばきなど、確かに「いま、ここ」にフォーカスしなければならない工程が数多くある。しかし実践してみると、気付けば上の空になっている。心ここにあらず。慌てて現実に視点を引き戻し事なきを得る。集中力があるのか無いのか。
「いま、ここ」にフォーカス出来るというので瞑想に手を出してみるも、上手くいっているのか分からない。呼吸に集中することは簡単で、雑念を取り除くことも簡単だ。自分を俯瞰して見ていればいいから。但しそうすると離人感が強くなり、自分がどこまでも離れていきそうな感覚を覚え、怖くなってやめてしまう。私の瞑想方法は合っているのだろうか。
 という風に「天敵」たる外向的感覚と仲良くするために色々苦戦しているという話。書いていて思ったが「いま、ここ」の感覚を得て、そこから未来や真理への思考が飛躍することなくスムーズに繋がるように、回路を強固なものにするのが外向的感覚を鍛える一番の意義なのではないだろうか? だとすると、思考の海で溺れる前に引き返す練習は十全に出来ていると捉えても良いのだろうか。
 未知の領域を知るのは面白い。「天敵」から「悪友」くらいには昇格させてあげたいものだが、果たして。


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