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中間色のくすんだ色調-ベン・シャーン、ラフカディオ・ハーン、ロバート・キャパ、焼津に寄港した漂泊者の眼差し、そしてラッキードラゴン-


                                            
 リトアニアで生まれ、アメリカで活躍したベン・シャーンという画家がいる。焼津の漁船第五福竜丸をテーマにした作品群『ラッキー・ドラゴン』が有名だ。その中の一枚に焼津の町並みを俯瞰気味に捉えたものがある。後にこれらの作品群をもとにアーサー・ビナード構成・文によって改めて世に出された『ここが家だ』という本の表紙になっている絵だ。様々な色合いの屋根が混沌と佇み独特の雰囲気を醸しだしていて実に焼津らしい。
 焼津で生まれ育ったわたしはそれを見て、この画家が焼津の空気感や光をよく捉えていることにとても驚いた。それと同時に、この空気感や光を、たとえば人に伝えようと思って言葉で表現するのなら一体どんなものになるのだろうかと思案した。 
 そんなある日、実家に帰省するために焼津駅に降り立ったわたしは駅前に小泉八雲の碑があるのに気づいた。八雲が焼津にゆかりのある人であることは勿論知っていたが、これまでなぜか何年もこの碑には気がつかなかった。この時に初めて焼津で八雲に出逢ったような気がし、わたしは天啓に打たれたかのようにその碑に惹きつけられた。そこには彼の『焼津にて』という随筆の冒頭の抜粋が刻まれていた。

《日がカンカン照ると、焼津というこの古い漁師町は、中間色の、言うに言えない特有な面白味をみせる。まるでトカゲのように、町はくすんだ色調を帯びて、それが臨む粗い灰色の海岸と同じ色になり……》*1

 これだ、と思った。八雲はわたしが思案していた焼津の空気感や光について言葉で見事に表現していた。敢えてわたしなりに要約すればそれは"中間色のくすんだ色調"ということになる。人々の優しさと海の荒々しさが複雑さを孕みつつも素朴さを残して入り混じったかのような"中間色のくすんだ色調"。この色調に包まれた世界、それこそが焼津の空気感や光なのである。
 一枚の絵と言葉がわたしの中で渾然一体となり、リトアニア生まれのベン・シャーン、そしてギリシャ生まれの、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが結びついた。故郷を離れて様々な地を渡り歩いて人生を過ごしたこのふたりの漂泊者は、どちらも彷徨う中で焼津の空気感や光を同じように捉えた。
 先に引用した文をもう少し読み進めていくとハーンは、海岸沿いの防壁上から眺めた町並み、及び反対側の海の様子について魅惑的に次のように語っている。

《……こうした作りの防壁の頂から陸の方へ目をこらすと、町全体が一望のうちに見渡せる-灰色の瓦屋根や風雨にさらされた木造の家並みが広がる空間、そのあちこちに、松の木立が寺の庭のありかを示している。海の方は、何マイルも続く水面の向こうに雄大な眺め-ギザギザの青い山並みが地平線にくっきりと群がるさまは、巨大な紫水晶のよう。そしてその彼方、左手には、まぼろしのような富士の神々しい姿が、ひときわ高く聳え立っている。……》*2

 冒頭で述べたシャーンの絵は、ちょうどハーンが表現した防壁上から町並みのほうを眺めたものを思わせる。かってまだ防壁が存在した頃にその上を歩いたことのある人ならこのことがよくわかると思う。ハーンは町並みを灰色を基調に、シャーンはさまざまな色合いで表現しているが、まるで、同じ景色を同じ人物が白黒とカラー写真の両方で一枚ずつ撮影したかのような錯覚を覚える。
 もしかしたら、ハーンより後に生まれたシャーンはハーンの『焼津にて』を読み、それを参考にして焼津の町並みを描いたのかもしれないが、実際のところはわたしが調べたかぎりではわからない。因みにシャーンは1960年に来日して京都や東京を訪れている。1957年頃にラルフ・E・ラップ博士の『ラッキードラゴンの航海』という記事の挿絵としてラッキードラゴンシリーズを描き始め、1961年に個展で発表していることを考慮すると、もしかしたら焼津に立ち寄った可能性もなくはないが、残念ながらその際に焼津に足を運んだ形跡は見当たらないようだ。** 
 ところで先程少し防壁について言及したが、数十年前は、かって新屋の浜と呼ばれていた付近から青峯プールの辺りにかけてまだこの防壁が残っていた。現在はそれは取り壊されて以前の海岸は広範囲に渡って埋め立てられている。1900年前後に、今はこの埋め立て地の下に眠る海で、ハーンは遊泳を楽しみ霊感を育ませていたのだ。ハーンが焼津滞在時に常宿にしていた山口乙吉さんの家があったのは防壁跡地からほど近い、現在は八雲通りと呼ばれている通りの一画である。
 少年の頃のわたしは、毎朝この防壁上の歩道を新屋の浜から青峯プールにかけて走ることを習慣としていた。防壁の下のテトラポットに、波が体当たりするかのようにぶつかる様はいつでも少し怖かった。ハーンが『焼津にて』の中で描写しているような、焼津の海岸線が虚空蔵山へとのびて更には富士山へと手をかけようとする絶景を、心へ染み込ませるように駆け抜けた。ハーンが言葉で、シャーンが絵で表現したと思われる防壁からの焼津の町並みのほうも、心の別の深いところで感じていた。
 もしシャーンが『焼津にて』を読んで描いたのなら、彼はハーンと焼津に深い尊敬と共感を抱いていたようにわたしは思う。一方読まずに描いたのなら、この二人の漂泊者は別々の世界から焼津の同じところに到達していたとわたしには感じられる。
 おそらく漂泊者の眼差しは、人々を眺めるように海を眺め、海を眺めるように人々を眺めるようなものなのかもしれない。そしてその眼差しの先には"中間色のくすんだ色調"があるのかもしれない。そんな眼差しと焼津という漁師町が同調し、あの一枚の絵と言葉が生まれたのだろう。
 話は変わるが、1954年の春にユダヤ系でハンガリー生まれの写真家ロバート・キャパが焼津に立ち寄った。第五福竜丸がビキニ環礁から帰還してまだ日の浅い頃だ。彼は第五福竜丸の乗組員23人の取材を希望していたが許可がおりなかったらしい。***
 故国を追われ数多くの戦地をカメラと共に渡り歩いたキャパもまた漂泊者と言える。キャパも船のように焼津に寄港したのだ。この時に同行していた彼の友人川添浩史氏は次のように語っている。「……焼津へと赴いたキャパは、降る雨の港につながれた福竜丸を黙然とみつめていた。……」*3
 この後日本からベトナムへと飛び立ったキャパは、来焼からほぼひと月後の5月25日に地雷を踏んで帰らぬ人となった。キャパはいつも戦争と平和を同時に見つめていた気がする。それこそが時代や宿命に翻弄された漂泊者の眼差しであり、そこには"中間色のくすんだ色調"があったのだろう。
 そんなキャパは何よりも人を撮る写真家であった。焼津の人々を撮影した素朴な温かさを感じさせる写真が何枚か残されている。もし彼が第五福竜丸の乗組員たちと対面していたら、シャーンのラッキードラゴンシリーズと比肩する記録がこの世界に生みだされていたかもしれない。そんなキャパが宿命的に渡り歩いてきた戦争という世界を、ハーンがまるで予見したかのように焼津の海を通して幻視している。

《……駿河湾のあの荒潮にじっと聞き入っていると、人間に知られた恐怖の、ほとんどあらゆる音を聞き分けられたからである。ただ単に凄まじい戦闘の音、果てしない一斉射撃、際限もない突撃の喊声ばかりではない。けものが吼える声、火がパチパチシューシュー燃える音、ゴーゴーという地震の地鳴り、ドドッと崩れ落ちる轟音、そしてとりわけ、悲鳴と絶叫の入り混じった絶え間ない叫喚-溺死した人々の声と言われている「わだつみの声」が聞き分けられたのである。憤怒と破滅と絶望の、およそ考えられるすべての反響を一つに合わせた-畏るべきどよめきの極致が。……》*4

 少し視点は変わるが、ここで、シャーンがラッキードラゴンシリーズの久保山愛吉さんを描いた絵で、愛吉さんを代弁している次のような言葉も紹介しておきたい。

《i AM A FiSHERMAN AiKiCHi KUBOYAMA BY NAME. ON THE FiRST OF MARCH 1954 OUR FiSHiNG BOAT THE LUCKY DRAGON WANDERED UNDER AN ATOMiC CLOUD EiGHTY MiLES FROM BiKiNi. I AND MY FRiENDS WERE BURNED. WE DID NOT KNOW WHAT HAPPEND TO US. ON SEPTEMBER TWENTY THIRD OF THAT YEAR i DiED OF ATOMiC BURN. 》*5
-わたしは漁師の久保山愛吉です。1954年の3月1日よりわたしたちの漁船第五福竜丸は原子雲の下をビキニ環礁から80マイルも漂泊しました。わたしと仲間は被ばくしました。わたしたちは何が自分たちの身に起こっているのか知りませんでした。その年の9月23日にわたしは原子やけどで死にました。-(日本語訳は本稿筆者)

 第五福竜丸は強靭な精神で焼津を目指していたのだから漂流や漂泊をしていた訳ではない。しかし乗船していた人々の心は彷徨っていた。それが"WANDERD"という一語に表現されている気がする。更に言えば"第五福竜丸"という我々人類は、今だに原子雲の下を漂泊しているのである。核の恫喝が耳障りな昨今、このラッキードラゴンが帰還すべき港はどこなのだろうか?
 ハーンもキャパもシャーンも漁船のように焼津に寄港した。ハーンは見える世界と見えない世界を、キャパは戦争と平和を、シャーンは不正と正義を見つめていた。こういった其々のふたつから生みだされる何かがある。これらのふたつから目を逸らすことのできない漂泊者はその何かを感じている。"中間色のくすんだ色調"にそのヒントはある。しかしそれではまだまだ言い切れない、表現できない何かがこの世界には在る。漂泊者はそれを渇望するからこそ漂泊しているのであり、それを見つけられないからこそ漂泊している。もしかしたらその何かとはハーンの言う"白い光"なのかもしれない。

《しかし「可視」の世界のどこにも、白い光というものはなかった。これには驚いた。
 すると、どこからか「声」がして、私にこう告げた-
「白い光は最高位のもの。億兆の光を混じて、それは作られる。お前の役目は、それらの灯をともす一助となること。お前が輝くその色が、お前の価値に他ならぬ。お前の活動は、ほんの一瞬。しかしお前の脈動の灯は生き続ける。お前の思想によって、それが光輝く一瞬、お前は神々を作る者の一人になる。」》*6

 もし1954年3月14日にハーンが甦り焼津に居合わせ、自力で焼津港に帰還した第五福竜丸を迎え入れていたとしたらどんな反応を示しただろうか?生来のジャーナリスト魂を発揮して、真摯な取材と精緻な文章で何らかの記録を残していたであろうことは間違いない。焼津に愛着をもっていたハーンなら、シャーンと同じく市井の人々に眼差しを注ぎ、語り合ったハーンなら、原水爆の巻き起こす惨状を知ったなら、決して黙っていることはできなかった筈だ。 
 第五福竜丸は帰還後放射能が減った後に東京水産大学(現・東京海洋大学)の学生の航海の練習船「はやぶさ丸」となり、更には1967年に廃船処分の結果、ゴミの処分場であった「夢の島」の埋立地に放置された。それを見つけ、憂いた有志の人々の尽力によって1976 年 6 月に東京都立第五福竜丸展示館に安住の地を得た。言わば第五福竜丸は、被ばく後夢の島の展示館に辿り着くまで厄介者のように孤独に漂泊の憂き目にあったのだ。新聞で放置のことを知った第五福竜丸の乗組員だった大石又七さんは、同じく乗組員だった鈴木隆さんと共に夢の島へ第五福竜丸に逢いに行った。

《変なところで、ふたたび第五福竜丸に対面することになった。あたり一面に悪臭がただようゴミの山、そのわきの海にいた。
 どっぷりと船体を沈め、顔だけ出しているかのように舳先を出している姿は、何と言っていいか、あわれというほかはない。舳先にある錨を上げる二つの穴は、こちらを向いて涙を出さんばかりの顔が助けを求めているかのように見える。昔なじみに出会った気持ちがした。あまりの変わりはてた姿と、見捨てようとしていた自分の後ろめたさも手伝ってか、背中にすうっと寒いものを感じた。
 船は老人のようにも見えた。船は女性というから老婆というべきかもしれない。俺にはとてもゴミには見えなかった。》*7

 最後に、ハーンが『海辺』のなかで描写する、焼津の浜で執り行われた、溺死した人々の為の施餓鬼会後の光景を挙げたい。かって焼津の浜でハーンが目撃したこの様子にわたしはとても感銘を受けた。何かが終わった後で予期せず煌めいた希望の光のようなものがそこには在る。この光がどんな色をしているのかはわからない。しかしこの光景をシャーンが描いたとしても、キャパが撮影していたとしても何の違和感もない。ここには漂泊者の眼差しがあるからだ。

《儀式が終わると、一人の漁師が、日除の柱を軽々と天辺まで登った。そこで体操でもするように身構えると、たくさんの小さな餅を、集まった人々の上へバラバラと撒き始める。それを、子供たちがキャッキャッと笑いながら奪い合った。あの気味わるい厳粛な儀式のあと、こんな歓声があがったのにはびっくりした。しかしまた、それが非常に自然で、愉快で、人間的だと思った。》*8


文中引用は以下の文献による。

*1・2・4 村松眞一編訳注『対訳・焼津の八雲 名作集』2007 静岡新聞社 所収−焼津にて−より。尚、焼津駅前にある実際の小泉八雲碑の訳は村松氏のものとは若干異なっている。他の訳者のものと思われる。
*3 ロバート・キャパ著 川添浩史訳『ちょっとピンぼけ』1979 文藝春秋 所収−亡き友キャパ−より。
*5 ベン・シャーン画『THE LUCKY DRAGON』(福島県立美術館)より。
*6 村松眞一編訳注『対訳・焼津の八雲 名作集』所収−夜光幻想−より。
*7 大石又七著 『死の灰を背負って』 1991 新潮社 より。
*8 村松眞一編訳注『対訳・焼津の八雲 名作集』2007 静岡新聞社 所収−海辺−より。
** 永田浩三著『ベン・シャーンを追いかけて』2014 大月書店 P.174記載の記録による。
*** 永田浩三著『ベン・シャーンを追いかけて』2014 大月書店 P.99記載の記録による。

その他参考文献等
・ベン・シャーン著 佐藤明訳『ある絵の伝記』1979 美術出版社
・現代美術 第1巻 『Ben Shahn』1992 講談社
・ロバート・キャパ写真集[戦争・平和・子どもたち]1992 宝島社
・都立第五福竜丸展示館HP
・焼津市歴史民俗資料館第五福竜丸コーナー
・焼津小泉八雲記念館

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