見出し画像

渤海国異聞(4)


J.N(元三井金属資源開発株式会社)

-中国の社会・経済・文化一

<ソ連と中国>


 中国は1949年の建国後、ソ連邦を教師に国造りを進めた。中国の科学技術・産業のあらゆる面に、ソ連の影響が色濃く残っている。資源関連についていえば、資源の調査方法探鉱手法から評価手法に至るまで、ソ連流の基準規格で標準化されている。
 しかるに、ソ連については、かんばしからぬ話をよく聞かされた。ソ連が満州重工業の機械類をすべて接収・撤去した話などは、日本側に対して最大限の協力・支援を期待しての駆け引きなのかと聞き流していたが、昨年の新疆では、ソ連は合弁企業の産品をすべて自国へ持ち去り、撤収した時(1960)、機械類はすべて撤去し、その上坑道を爆破して去ったと聞かされた。鉱山の地表部は確かに崩落しているが、どうみても自然崩壊が原因としか思われないのだが。雲南では、ロシア人の宿舎や待遇などに関してトラブルが多かったとの話を聞いた。
 毛沢東は、中華人民共和国建国後、親ソ一辺倒の方針を進め、その翌年の1950年には、「日本もしくは日本の同盟国」を仮想敵国とする中ソ友好同盟条約を締結した。同盟条約とともに、借款協定と新疆の石油開発、有色金属開発などの中ソ合弁による共同開発に関する利権協定が結ばれた。50年代の中国の対外貿易の50%以上は対ソ連で、これに東欧諸国を含めると、中国の対ソ連圏の貿易依存度は70%〜80%に達していた。
 中ソ関係が決定的に悪化したのは、1960年のフルシチョフによるソ連人専門家1390人の一斉引揚げであるが、中ソ不和の遠因は、1950年に勃発した朝鮮戦争であったと聞かされた。ソ連は武器の提供を約束し、中国に参戦を促した。中国政府部内では積極的な賛意はなかったが、毛首席の決断で朝鮮出兵が決まったという。中国は100万人の兵力を投入し、18万人が戦死するという犠牲を払った。しかるにソ連から送られた兵器は、すべて借款による売買となり、中国は利子まで払わされた。中国は「ソ連は背後で兵器を売る死の商人である」と非難した。
 中国ーソ連関係史については、毛里和子(1989)が「中国とソ連」にまとめている。「ソ連に学べ」の中ソの蜜月関係は、僅か数年で破綻し、以後不毛のイデオロギー論争が続き、対立と対決の20年が始まった。1964年、ベトナム戦争へアメリカが直接介入した。毛沢東は前門(アメリカ)と後門(ソ連)からの両面攻撃にそなえて、沿海部の工業の内陸部への移転を実行する。
 この時期、各地に小規模溶鉱炉が建設された。雲南の山奥で、遺跡のようなものが目についた。「あれは何の遺跡ですか」と尋ねたところ、通訳は言いにくそうに、「毛沢東が造った土法鉱炉の跡ではないですか」とつぶやいた。現在の中国の鉄鋼生産量は1億tに達するが、中国産の鉄鋼は品質に問題があり、用途が限られる。1993年には国内生産9100万に対して、3000万tの鋼材を輸入した。国内産の不良鋼材は過剰在庫となっているという。中国には100万t級以下の中小製鉄所が100ヶ所以上もあり、この規模では、品質や生産性の改善は難しく、鉄鋼業近代化のネックとなっている。高品質の鋼材の供給は、上海宝山製鉄所の完成を待たねばならなかった。
 1969年の文化大革命により、中ソの対決は嫌悪化した。1969年に起こった黒竜江珍宝島での中ソ武力衝突は、対ソ対決で、国際世論の関心を引き、アメリカに接近するため、中国側で仕組んだものと聞いた。西の新彊では、カザフ人数万人の越境問題などから、中ソの衝突が頻発した。中ソ友好同盟条約は、1979年破棄され、以後、関係改善への努力が続けられたが、本格的な中ソ和解は1985年のゴルバチョフの登場を待たねばならなかった。

<中国の人口問題>


 中国での休日には、時間がゆるすかぎり、公園や動物園など人々の集まるところを散歩することにしている。ここで目立つのは、家族ずれで、若い両親の間で手をつながれた明るく幸福そうな子供の表情である。子供はたいへん大事に育て


られている。18年前の1979年、北京から南京、広東、海南島まで、中国各地を回ったが、この時の印象とは天と地との開きがある。1979年といえば、文化大革命が終結し、日中平和条約が締結され、改革解放政策への転換が行われた翌年である。当時は何処へ行っても、政治的なイデオロギーを鼓吹する勇ましいスローガンが氾濫していた。灰色の国民服をまとい、疲れ切った無表情の民衆の洪水に出会ったことと「自力更生」の置き土産、放置された稼働しない工場のわびしい姿が脳裏に焼き付いている。
 中国の人口政策は、個人の自由な意思を拘束しており、人権と人道に反するものであると、一部の西欧先進国から痛烈な批判をあびている。しかし、中国にとっては、これは自国民が生きるか生きられぬかの問題であり、もともと議論はかみ合わないと思う。この問題で中国人識者と議論したことがある。中国が多くの犠牲を払って人口政策を続けるのは、中国自身のためであるが、周辺諸国への迷惑をかけぬためでもある。もしも人口政策を放棄すれば、その代替案は、周辺諸国への難民の流出か、人口輸出しか残らないだろうというのが彼等の意見であった。以前は、東北地区や新彊、雲南などの移住先が中国領土内にあったが、今では少数民族の問題ともからみ、移住民を受け入れる余地はほとんどない。中国に限らず、21世紀にせまる第三世界の人口爆発を放置したら、環境問題とエネルギー問題に加え、地球規模での食糧問題の深刻化が避けられぬだろう。
 第3図は中国全体及び主要地区の人口ピラミッド図(1982年基準)である。中国で人口センサスが実施されたのは1953年で、以後、文化大革命の混乱期を除き、ほぼ10年毎に実施されている。1957年、北京大学学長の馬虎初は、第1回人口センサス(1953)のデータを検討して人口抑制の必要性を強調した。しかし、毛沢東の「人口は中国の武器であり、国力である」との方針に反するとして、馬虎初はブルジョワ右派分子であると批判され、北京から追放された。第3図によれば、21〜25才台(1957〜1961年の出生人口に対応する)の出生数に著しい異常が認められる。特に四川省などの内陸部、農村部の出生数が著しく減少しており、5年間の平均値をみても、通常の半数程度となっている。1958〜1961年は、人民公社を柱とする「大躍進」政策の高揚期に相当する。この期間、後で分かったことであるが、農村の出生率が激減しただけでなく、死亡率が上昇し、人口増加率はマイナスに転じた。その原因は、食料分配などの政策上の失敗から、約3000万人が餓死したためであると推定された。
 中国の一人っ子政策についての背景と経緯については、若林敬子(1994)が「中国人口超大国のゆくえ」にまとめている。一人っ子政策の現象面とその影響については、莫邦富(1992)「独生子女」に詳しい。1961年、人民公社解体後、農村を中心に2〜3億人の過剰労働力が顕在化した。その一部は盲流となって都市に流入し、戸籍のない流動人口は1億人といわれる。更に、その予備軍を合わせて2億人が難民予備軍といわれている。中国では「錯批1人、誤増3億」(1人を誤って批判したことで、3億人の人口を増やしてしまった)との反省が行われ、1978年には都市部での人口抑制策が検討された。1979年、全国的な計画出産が提唱され、1982年に世界に例をみない人口法、計画出産政策が国家政策として確立した。
 1979年に始まる一人っ子政策は、厳しい賞罰制度と徹底した人口管理を伴っており中国農村の伝統である「多子多福」、「男尊女卑」、「養児防老」を否定するものである。当然のことながら、家族制度への影響が危惧された。一人っ子政策の出産規定は、何度かの見直しが行われ、農村部では第1子が女子であれば、4〜5年後に第2子の出産が認められ、少数民族の場合は最大3名までの出産が認められる。一っ子政策の結果、無戸籍の黒孩子が増加し、女児間引や捨て子の蔓延から性比の著しいアンバランスが生じた。一人っ子に対する溺愛や過保護から「小皇帝」の社会性の欠如が問題視されている。さらに20年後には、世界に類をみない高齢化社会に直面する。人口構造は釣鐘型を飛び越えてキノコ型になろう。その影響をまともに受けるのは文革世代のはずである。「一人っ子政策は20世紀末の大実験であり、地球と人類に対する大きな貢献である」とも、「報復は21世紀に来る」ともいわれる所以である。
 しかしながら、人口爆発を放置したら、そのツケは、餓死か、内乱かぐらいしか、その選択肢は限られるだろう。厳しい人口政策により、20年間で2億人の人口増が押さえられたという。中国の人口自然増加率は1.145%程度である。中国の人口は、1995年に12億人を越えた。それでも21世紀の人口ピークは16億人に達すると予想されている。中国の人口政策には様々な困難を伴うが、改革解放後の中国が高度経済成長を続けられるのも、人口問題の解決に目安をつけ得たからこそ可能になったのではなかろうか。

<中国人と日本人>


 過去数回の中国訪問で、多くの中国人と共に仕事をし、個人的にも大変お世話になった。彼等は皆、各々に義理固く、有能で勤勉である。しかし、組織の一員としての立場での交渉事となると、趣きがかなり違ってくる。彼等の本音を読み切れないことも多々あった。組織人としての中国人の行動形式は、西欧人とも日本人ともかなり異なると感ずることが多かった。
 邱永漢(1993)は「中国人と日本人」の中で、「日本人は職人であり、中国人は商人である」と総括している。中国人と日本人の発想や性格、行動形式の違いをうまく言い当てていると思う。彼が言いたいのは、だから日本人が独力で中国人に対抗しても、中国でビジネスあるいは商売をしても、とても勝ち味はあるまい、まず信頼できる中国人協力者をさがす必要があるということである。
 NHK国際放送のインタビューシリーズ、中村治編集(1994)「日本と中国はここが違う」に、中国人と日本人の民間人・各界20数名のインタビュー結果を収録している。必ずしも本音が出そろったわけではないが、ここでので共通認識は、「中国人は思った事をストレートにはっきりとものを言う。日本人は曖昧な表現で以心伝心を期待する」ということである。
 本書に収録された中国人と日本人の特質と差異について、主なものを以下に列記してみる。
「中国人は実利優先、日本人は名や含みを優先。」
「中国の文化は対称的構造、日本の文化は非対称。」
「中国の文化は人間の力を重視する。日本の文化はありのまま、自然に帰ることを重視する。」
「原則の中国、曖昧で柔軟な日本。」
「中国人はソロバン高く、油断がならない。日本人は融通がきかない。」「多民族社会の中国、同質社会の日本。」
「中国人の交渉力は世界一、日本的な遠慮や思いやりは通用しない。」
「中国人は状況の変化に聡く、契約観念に乏しい。納期、数量、品質にあまい。」
「中国人は原則と建て前に厳しいが、実際の行動面では柔軟である。」
 日中の相互理解を深めて行くためには、まず両国の文化的、歴史的背景の違いを理解した上で、発想の違いや、行動様式の違いを認識する必要があろう。中国人は原則にかたくなでも、行動面では軟体動物のように柔軟である。このような中国人独特の性格はどのように形成されたのだろうか。中国は「人治の国」であり、「上に政策あれば、下に対策あり」といわれる。恐らく硬直的なピラミッド構造の中で、各組織、各社会、各個人の内外で、柔軟に変化する複雑なネットワークが機能しているのではなかろうか。中国は形の上では中央集権国家ではあるが、機能的には多重規範の国であると思う。中国人が原則に厳しいのは、組織内コンンサスを確立し、組織をまとめるための大義名分を必要とするからではなかろうか。中国人の発想と行動形式は、中国的重層社会に由来するのではないかと思う。

<中国人の交渉術>


 中国人にとって、交渉は妥協ではなく駆け引きと考えられているように思う。中国での交渉事は、先方の真意と落ち着き場所が予測できないことが多い。中国人は利に聡く、必ず原則論と建て前論を主張するので、ここで、おかしな妥協も、非難合戦も禁物である。結局、個別問題や実施面での中国側の柔軟性に期待して、その後の成り行きにまかせるほかない。プロジェクトの成否がどうなるかなかなか掴めないので、過度の忍耐と時には居直りも必要である。「慌てず、焦らず、当てにせず、諦めず、侮らず」が、中国での交渉に必要な心構え五ヵ条といわれる所以である。
 中国人の交渉術に関して、最近、次の2著書、CIA秘密研究(1995)「中国人の交渉術」及びL.W.Pye(1993)「中国人の交渉スタイル」を読んだ。前書は、主にキッシンジャーと周恩来との政府間交渉の記録を体系的に整理・研究している。後書は、日米ビジネスマンの中国での交渉体験を集約している。両書とも思い当たるふしがあまりに多く、大変興味深かったので、参考までにその要旨を書き出しておきたい。
 前書によれば、中国側の交渉手法は、
(1)まず個人的に親密な関係を構築する。相手国の内部事情をあぶり出すが、自国の内部事情や手の内は隠しとおす。

(2)渉のプロセスを中国側で一方的に管理・支配することに全力を注ぐ。そのためには、交渉のお膳立て、情報操作、示唆的な表現、挑発的行為、引き延ばし、公式記録や原則に関する意図的歪曲、約束無視などあらゆる手段を用いる。

(3)国側は極めて組織的かつ規則的な方法で交渉を運営しようとするので、中国側による交渉プロセスのコントロールを防ぐことが重要である。そのためには、交渉を打ち切ってもよい、決裂させてもよいとの意思表示が有効である。実際に提供できる以上のことを絶対に約束してはいけない。
 後書によれば、中国人の交渉術は、「互いに矛盾する圧力によって支えられている」という。ここでの「互いに矛盾する圧力」とは、例えば、頑迷と柔軟、組織と個人、甘えと面子などである。
(1)まず一般原則について合意し、その後に面倒な個別事項を協議する。相手の手の内を明かすよう仕組むが、自分達の方針や計画は決して明かさない。
(2)個別事項の交渉では、複数の競合者を秤にかけ、一般原則で一定のわくをはめる。
(3)相手の弱点、誤り、失言を逆手に取るなど、あらゆる手段を使う手練手管にたけており、「決して勝てない」状況を造りあげる。日本との交渉では、たえず日本の中国占領を持ち出す。
 本書には、中国の社会、文化などについて、大変興味深い見解が示されているので抽出しておく。
「中国側は、個別の妥協を高く評価せず、互恵とか共同の努力、目的の共有といった理想を高く評価する。」
「交渉がこじれた時、相互批判は生産的でない。ソ連やベトナムは、中国の立場を敢然と批判したことで、2国間関係を決定的に悪化させてしまった。」
「中国の組織は、ソ連のような硬直化した官僚組織ではないが、横の連携が欠けている。権威主義的であるが、特定の問題や手続きに一環して責任を持つ人物は存在しない。権限の範囲を明らかにしないので、唯れも政策の実現に責任を負わない。」
 1989年の天安門事件は、人治に対して、法治を要求する学生市民の民主化運動であったが、ゴルバチョフの訪中を契機に、運動の矛先は超法規的に君臨する部小平打倒に向かった。「お前は何者であるか。どういう資格で国政に口出しするのか」との学生たちの追及に、鄧小平は返す言葉なく怒り心頭に達した。武力介入を決断した背景には、このような本音が隠されているとの話が伝わっている


<中国人のビジネス感覚>


 最近10年間の中国の経済統計を調べてみた。中国への海外からの資金流入は、2国間及び多国間ODA、その他の公的資金の合計が30〜40億ドル、民間資金流入が約20億ドル、合計50〜70億ドルであったが、1993年以降民間直接投資が倍増し、1995年には直接投資だけで380億ドル(実施ベース)に急増し、公的資金とその地位が逆転した。なお、2国間ODAで日本が占めるシェアーは約60%である。民間資金の中国への直接投資は香港・マカオが約60%を占め、これに台湾シンガポールを加えると70%を越える。その実体は華人の投資資金のほか、中国本土より逆流した資金が相当額含まれるとみられる投機性の高い資金である。民間直接投資の日本のシェアーは7〜8%である。
 中国の財政収支は、1994年度公表値によれば、財政支出58百億元に対し、財政収支不足6百億元、実質財政赤字12百億元である。財政収入構造は、税収98%、企業収入0%、債務収入23%、企業欠損補填30%となっている。中国の財政は、赤字体質が定着しており、財政赤字を外資導入で補う構造になっている。その主因は主要歳入源であった国有企業の不振により、企業収入が大幅なマイナスに転じたことによる。ちなみに1978年の企業収入は、財政収入の51%を占めていた。財政支出に占める中央と地方のウエイトは、収入で中央/地方比56:44(1993年以前は中央30〜40%)、支出で中央/地方比3070(1993年以前は中央30〜40%)である。
 最近、地方政府が独自性を強め、その権限が増大しているが、その背景には、国有資産の流出と予算外資金の増加がある。社会主義国家ではその建て前上すべての資産資金は国有のはずだが、自主運営責任体制の高まりとともに、主として地方政府内に、公的資金とも私的資金ともつかぬ予算外資金が急増した。予算外予算は外部に公表されることはないので、その実体は掴み切れないが、既に、地方政府の総予算額の50%程度に達しているといわれる。予算外資金は、所管官庁の権限と責任体制のバランスギャップにより、不可解な動きをする資金と化し易く、時として外部に流出し、投機資金となって暴れ回る。
 中国の国有資産は、計画経済から社会主義市場経済に移行する過程で、様々な形で流出し、失われているといわれる。このうち最も経済社会に対する影響が大きいのが、国有銀行の融資が次々と不良債権化していく過程であろう。国有資産の総額は3兆〜4兆元といわれるが、中国の海外投資は数百億ドルに達し、中国海外企業の資産総額は既に2兆元に達しているといわれる(大久保・今井(1995)「中国経済Q&A」による)。
 譚路美(1993)は「素顔の中国人」の中で、台湾、香港の華人に中国投資の秘訣を聞いている。「中国投資の秘訣は、ヒット&ランである。短期間に投資を回収して、さっさと逃げ出すこと。」「ヒット&アウェイである。相手に一発見舞ったら素早く離れて身をかわすこと。」結局、投資資金の早期回収に心掛け、臨機応変、身軽にふるまい、目先だけ追い、決して深追いしないということである。このような方法は、全く投機目的のマネーゲーム、カジノ経済あるいはバブル経済に即応した手法であろう。
 ヤオハン会長和田一夫(1995)の「中国で勝つ戦略」は、絶頂期の和田の考え方を知る上で面白い。絶頂期の彼の判断と行動の中に、「深みにはまって行く」罠が仕掛けられている。ビクトリアピークの迎賓館-スカイハイの大邸宅や、接客用豪華クルーザーを香港での必需品として購入したのは、バブルの付け回しに加担したことにほかならないだろう。日中合弁企業の高品質の輸出用衣料は、高すぎて売れなかった。中国では安いことが基本であり、利幅は小さいと分かっていながら、東洋一のショッピングセンターNEXTAGE上海を開店した。高収益の香港ヤオハン1号店の家賃は10年目の契約更新期に、一気に5倍に値上げされ、ただちに赤字店に転落した。中国的ビジネス環境と中国流マネーゲームに対処するのに、あまりにも無防備すぎたのではあるまいか。
 長春では、物理探鉱の専門家で吉林有色金属公司の顧問でもある呉相嚇氏に通訳をお願いした。しかし、吉林省計画委員会は、彼の通訳としての参加を認めなかった。後で知ったことであるが、外国人が中国人スタッフを直接雇用することは認められず、特定の機関を通して雇用することになる。この場合、現地雇員が受けとる給料は、支払額の25〜35%となる。
 東京に居住する中国人エコノミストの話では、「中国は建て前は社会主義であるが、実体は日本以上に資本主義である。日本は資本主義国であるが、実際は社会主義的である」という。何だか煙りにまかれた感じになる。中国の社会主義と資本主義の使い分けは見事というほかない。2重価格制のもとで、外国人が支払う差額は何処へ消えて行くのだろうか。モラルの低下や格差の拡大につながらねば良いと思う。

ぼなんざ1997.10

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?