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【M³ ゼミ 報告】みろくのヒカリ
(特別展)「文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰 ガンダーラから日本へ」私見
(特別展)「文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰 ガンダーラから日本へ」
2024年9月14日~11月12日まで、日本橋室町の三井記念美術館で開催。
バーミヤンの大仏や壁画は2001年3月にタリバンによって破壊されたが、この展示会では、それ以前に行われた調査の時のスケッチや写真をもとに、新たに描き起こされた復元図が展示された。
11月11日にこの特別展をみるために M³ のメンバーと共に三井記念美術館へ行った。
M³ とは東中野パオ8階にあるシルクロード文庫の発足に先行して松枝到さん(和光大学名誉教授)を中心に始めた研究会「夜ゼミ」に端を発している。
シルクロード文庫はその開設される年に亡くなられた前田耕作さん(和光大学名誉教授、東京藝術大学客員教授、アフガニスタン文化研究所所長)の発案と(株)パオ代表取締役の安仲さんの御尽力、オーナーである吉田勝貞さんの理解と、多くの人々の協力のもとに成立した。
昨年、研究会の中心である松枝さんが亡くなり、当時名前を「夜ゼミ」から「 M ゼミ」に変更していたメンバーは、重心を失ってもなお、研究会は存続しようと参加者全員の合意のもと「 M³ 」と名称を改める。
松枝さんの M、前田さんの M、そしてお二方にとっても我々にとってもお世話になった大先輩である故宮川寅雄さん(和光大学名誉教授)の M を所以にして「M³」(エム・キューブ)としたのだ。
バーミヤンの名称は古代イラン語の形容詞 bamya (輝く)に由来し、日の出の時に岩山を照らす光と関係するという。「ミフル・ヤシュト」には「創造主アフラ・マズダーはミスラのために、多くの支脈ある、輝ける( bamyam )高きハラー山の上に住居をつくれり」(10章50)とあり、バーミヤンの地自体、その地勢からも仏教が定着する以前、ミスラ信仰が盛んであったとみる説は有力といえる。
唐代の僧玄奘三蔵がバーミヤンを訪れた630年頃にはすでに東西の大仏も数多くの石窟もあり、仏教が盛んだったようだ。
その百年後にやはり唐から訪れた高僧によると、ますます仏教は盛んであり、エリア的には突厥の支配地域であったバーミヤンの王は胡人(イラン系)であったと記している。
東大仏の天井画には四頭の駿馬に乗る太陽神ミスラが中心に描かれており、
「不死にして駿馬の太陽の前にハラー山を真っ先に越え、四頭の白き駿馬の曳く黄金の馬車に乗り、御者アシ(幸運の女神)が車を操る。ミスラは先の尖った槍を持ち、勝利をもたらす風(ワータ)とともに来たりて、ミスラに反せし者の槍を運び去る。彼(ミスラ)の右にはアシを伴うよきスラオシャ(悪を駆逐する男神)が飛ぶ。左には偉大で力強きラシュヌ(正義の男神)が飛ぶ。」
「しかし、向かって左の女神をアテナと混淆したアルシュタート(正義)右の女神をニケと混淆したウパラタート(勝利)と解しうる。」
と宮治さんは語る。
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こうして見ると仏陀の立像の天上にイランの太陽神ミスラが守護神としてあるようだ。宗教としては寛容で多神、融合力のある仏教は古代の他の多くの神々とも共存しやすかったのだろう。
仏教以前からあるイランの太陽神ミスラは西に行けばギリシアの太陽神ヘリオス、ローマのミトラス、東に行くとインドの太陽神スーリヤ、中国から東アジアに至ると弥勒菩薩になる。
ユーラシア大陸の西と東にある太陽神がバーミヤンを結束点としてダイナミックに旅する姿を想像してみる。
してみるとバーミヤン仏教の壮大な物語がうかんでくる。
東大仏の仏陀の天井には弥勒にも通ずる太陽神がいて、西大仏が弥勒菩薩でその天井画が兜率天だというのである。兜率天は光に満ちあふれ、
「もし人ありてこの経を受持し、読ようしその義趣を解らばその人は命終する時、千仏が手を授けて、恐怖せず悪趣に落ちることなく、兜率天上の弥勒菩薩の所に往くであろう。弥勒菩薩は三十二相を具え、多くの菩薩たちに囲ぎょうされ百千万億の天女たちに付き添われており、その中に生まれるだろう。」
これが人の望む弥勒菩薩のいる兜率天への上生であり、兜率天では
「多くの身色微妙で、比類なき天女たちが現れ、手中に宝器を化し、瓔珞で身を飾り、楽器を執って天の調べを奏で、菩薩を讃嘆する。」
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ここには五六億七〇〇〇万年後に兜率天から下生する弥勒菩薩を観ずる弥勒大仏がみてとれる。
東大仏と西大仏で相互に上生と下生を繰り返す。
ここバーミヤンは地上につくり出された大伽藍であり、浄土であり、供養の大地、太陽を拝み朝日から夕陽までの一日を天界と歩調を共にする天然の大舞台だったのだろう。
一日一日、一瞬一瞬を祈りとともに大切に生きる姿を夢想する。
博物館や美術館で、ガラスケースに入れられた仏像を観察するのと寺院や石窟、深い山の中や辻々にある仏を拝むのとでは大きな差がある。
古代人の意識は想像するしかないが、近現代人にとっては日々の繰り返しに過ぎない些細なこともその一回性において充実した営みがあったように思う。
バーミヤン研究を深くされた故前田耕作さんは、1964年の調査にはじまり、長年現地に赴かれた。
晩年、バーミヤン大仏壁画をはじめ多くの修復と再生にご尽力された。
今回の展示会と2021年に開催された「みろく ―終わりの彼方 弥勒の世界―」を観なければ、私はバーミヤンのことも弥勒のことも知らなかった。現地に赴き現地人に触れ、調査とはいっても見て聞いて眺め触れ歩き食べ眠り、日の出から夕暮れまでをともに暮らし、夜空を眺め…
前田さんに見えていたバーミヤンはいかような姿だったのかを想像する。
「みろくへの道」(東京藝術大学 他著)の中で前田さんは、玄奘が見たという巨大な涅槃仏を見つけるのは、歴史考古学上の研究者の夢だと語っておられるが、あったとすれば、東大仏と西大仏の中間にあったはずだという。
上生と下生を繰り返す無時間性の間に涅槃仏があれば、地上に現れる壮大なマンダラ、天界に通ずる巨大な門となりはしないだろうか。
Text by 菅谷伸一 (M³ ボートマン)