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仕事が儀式ではいけない理由・その弐

どうも、プロ雑用です!
今日は1月6日のnoteの続きです!


儀式は集団のため、偽儀式は自己満足のため

前回の話を踏まえて、儀式的な仕事というのは、必要かどうかを考えてみたいと思います。

私が揶揄した行政やJTC(日本式伝統的企業)などの「お役所仕事」が、なぜ儀式に見えて、そしてそれが批判されるのかといえば、それは「儀式的」なだけであって「儀式」では無いからです。

前回に述べたとおり、儀式とはそれを変わり目・節目として、集団の内外に「ここから変わる」「これまでとは変わった」ことを示すも、そしてそれをその集団内コンセンサスにおける正しい手順でもって行われるものです。

一方で儀式的な仕事というのは、手順が儀式じみているだけで、儀式ではありません。変わり目でもなく、内外に知らしめる必要がないからです。いわば偽儀式!では、なぜ儀式的、儀式のように行われるのかといえば、それは上意下達集団における権威の維持が目的だからでしょう。

押印リレー、参加者がムダに多いのに発言者が数名の長い会議、派閥間調整などなど、儀式的であって儀式では無いもの。これらの目的は、各々の権威への「お伺い」です。参列参拝が多ければ権威は保たれ大きく肥えます。

ただ、そういった権威は物事の行く末に関しては責任はとってくれません。

仕事にストーンキャットは不要

仕事は何のために行うのかといえば、目的に沿った成果を得るため。
成果を得ることではなく、権威を立てることが目的の儀式的な活動は、仕事ごっこであって仕事ではありませんね。

ところでストーンキャットという言葉はご存じでしょうか?

ストーンキャットは不要だと思いますが、それでも儀式的な仕事よりもずっとましです。なぜかと言えば信仰の対象になっているわけですから。人々のk心の安寧に多少は役立っています。
しかし、ストーンキャット化した仕事は、もはや仕事ではなく偽物の儀式。はっきりいって害悪ですよね。

成果を得るために根回しするのはいいでしょう、目上の人に話を通したりすることも儒教的な考えでは大切です。しかし、成果につながらない行為、あるいは割に合わない労力が必要な仕事はナンセンス。

こういった偽儀式は、成果に対する貢献よりも労力(コスト)のほうがはるかに上回ります。一方で権威は使われたコストを誇ります。権威ある自分のためにどれだけ人が動いたか、を自慢することがあるのです。

組織に儀式は必要だが、仕事には不要

前回で書きましたが、儀式は組織に必要なものです。セレモニーでもあってもイニシエーションであっても、それは集団に属すること、あるいは物事の変わり目・節目・けじめとして必要になります。また儀式をすることで集団の一体化をはかることも可能です。このように、組織において儀式というものは多かれ少なかれ必要なものです。

一方で、儀式は仕事には不要です。
仕事に儀式を持ち込むことで、仕事も儀式もどちらも形骸化します。
行為の意味をなくすのです。言い換えると、儀式的な仕事はもはや成果を得ることが目的では無くなるため、仕事ではなくなってしまうのです。

つまり、儀式なのか、仕事なのか、はっきりさせろ、という話です。
儀式なら、集団(組織)の結束を高めたり、期変わりを周知したり、目的をインプットするため、集団内のモチベーションを高めるためと言った、儀式としての目的をきちんと果たさなくてはいけない。

仕事ならば、KPIやKGI、中長期目標において成果を得るために、どのようなプロセスが必要なのかを考える必要があります。そのために、例えばキックオフなどの儀式が必要になることもありますが、仕事のプロセスには儀式は必要がないのです。

不要で害悪だが壊せないのが偽儀式

そうなのです、偽儀式は、偽物でも儀式として集団にすり込まれているが故に、やめることが難しい。もはやそれはその組織の文化です。繰り返され前例が豊富な偽儀式のほうが、前例のない改善よりも好まれるのは、みなさんご存じでしょう?

ではどうすればいいのか?
私はこう考えます。

「あきらめましょう」「そしてそこから逃げましょう」

これしかない。頑張って変えようなんて考える必要はありません。
それは絶賛沈没している船にあいた無数の穴をひとりで塞ごうとするようなものです。そんな暇があるなら一刻も早く逃げてください。

そもそも偽儀式がはびこる理由は
「やろうが、やらまいが、安定しているから」
です。そういう集団は、実行権力を持っていない人でない限り、中から変えることは不可能なくらいに難易度が高いです。外圧でも変えられるかどうかは難しい。

そういった偽儀式のはびこる組織の中で、一生懸命がんばってる真面目で能力のある人たちが潰されてきた例は枚挙にいとまがありません。私の身近にもおります。真面目な人が潰れるとどうなるかと言えば、精神を病むか、偽儀式の共犯になるか、あるいはその両方です。

本当に志があるなら、逃げましょう
煮え湯を飲んで権力を握りに行けるぐらいタフであればチャレンジするのも良いですけども、後者はほとんどの人には無理ですから、逃げるぐらいしかできない。この場合、逃げないことは勇気ではない。撤退こそ勇気です。
それでも逃げない諦めないと考えているのであれば、ちょっと立ち止まって自問自答みてほしい。
「それって結局自分も安定を手放したくないんじゃない?」
「自分が変わりたくないだけなんじゃない?」
と。
それならそれで、諦めて取り込まれてしまったほうが楽なはずですから、口と目と耳を塞いで現状に甘んじるべきなのです。大それた野望は持ってはいけません。

最後はそんな悲しい結論になってしまいましたが、無理なもんは無理なんよ。人生、諦めも肝心です。損切りこそ勇気です。

それじゃ、また👋

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