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ある連隊の「首山堡戦」
一般的に遼陽会戦といえば、第二第四軍が首山堡一帯の前哨陣地で苦戦している間に黒木第一軍が太子河渡河を敢行しロシア軍後方に進出、後方連絡線を絶たれることを恐れたクロパトキン将軍は奉天に向け撤退したとなっています。
遼陽会戦を端的に説明しているとして広く語られ、とある小説では消極的な作戦計画により大損害を出した無能な第二軍参謀長と対比して描かれております。あの難解冗長な「公刊戦史」を精読するよりも理解したような気がしますが、本当にそうでしょうか。
私は八月三十一日午前五時四十五分の首山堡南方高地陥落を以って、勝敗が決したと考えています。
首山堡から早飯屯に至る「遼陽前哨陣地」と言われるものは、ロシア軍が急遽建設した要害でありながらその防御能力は卓越しており、多数の日本兵を少なくとも数日間は拘束できると想定されていました。
この「遼陽前哨陣地」こそが、本当の意味での「遼陽本防御線」になります。
クロパトキン将軍はこの前哨陣地で日本軍部隊の大半を拘束すると共に、その他の兵力をもって突出する黒木第一軍を包囲殲滅する作戦を立てていました。ところが、この防御線の要所「首山堡南方高地」が僅か二時間足らずで陥落したことにより、クロパトキン将軍の防御線に対する信頼を崩壊させ、計画の変更を余儀なくされたのです。
クロパトキン将軍は三十一日の正午には、軍団長シタケリベルグ中将に対し遼陽本防御線への撤退を下令、戦線を縮小させることで更に防衛兵力を引き抜き、圧倒的兵力差により黒木第一軍を殲滅する計画に切り換えました。
戦線整理を終えた九月二日、クロパトキン将軍は自ら陣頭に立ち新たな作戦を以って黒木第一軍に対し決戦を強要するつもりでしたが、前線部隊の士気は振るわず少数の日本軍に翻弄され、更に頼みにしていた勇将シタケリベルグ中将は、夜間の内に兵員の損害と疲労を理由に後退する始末でした。
翌三日、もはやクロパトキン将軍になすすべがなく、迫りくる奥第二軍、野津第四軍の鋭鋒を目前にして「撤退」の命令を下すのみでした。
ある連隊の決死突撃はロシア軍が誇る防御線を崩壊させただけでなく、ロシア軍指揮官の心に得体のしれない恐怖を植え付けたのです。
遼陽会戦は欧米列強の観戦武官から見ても日本軍の勝利に終わりました。そしてこの会戦以後、ロシア軍は勝利の青写真を描くことができぬまま敗戦を迎えることになります。
私はある連隊の戦功を過剰に表現するつもりはありません。
あの時、あの連隊の突撃が成功しなければ他部隊の攻撃は実を結ぶことはなく、黒木第一軍といえども数に優るクロパトキン将軍本隊の包囲を受け退却せざるをえないでしょう。
これだけのことでロシア軍は勝利を宣言でき、欧米列強に対する日本の信用は地に落ちます。戦費を外債に依存している日本の勝利と敗北は紙一重にすぎないのです。
この事実を陸軍は公にすることはありませんでした。
理由の一つは満州軍総司令部の誤りを認めることになり、もう一つは他部隊への配慮がありました。
満州軍総司令部の独善的な命令により、行動を阻害された各軍は戦力が大きく低下し悪戦につながったことは言う迄もありませんが、首山堡南方高地の激戦はその失態を象徴する戦いであり、陸軍としてその功を賞することははばかられました。
一大隊の局地的な戦闘に矮小化され戦史に記録されることになったのです。
損害は特に第二軍において発生し、内でも名古屋第三師団、熊本第六師団において甚大でした。第三師団は北大山制圧という功績が残りましたが、第六師団には目に見える戦果がありません。
第六師団の膨大な犠牲は、機関銃を備えたロシア軍陣地線に対し「砲兵支援皆無」で突撃を行ったことが原因です。日本軍の定法では火力支援を行わず敵陣地に突撃することは御法度ですが、第六師団では攻撃期日に間に合わせるために砲兵の追従を待たずに攻撃をかけることになりました。
機関銃陣地に対し白兵突撃をおこなった結果は明白です。
第一次欧州大戦の如く屍の山を築いたが、彼らとは違い退却せず前線の死角に身をひそめ、機関銃の制圧下じっと突撃の好機を待っていました。
第二軍司令部の配慮はここにあります。
首山堡南方高地がロシア軍に奪回された点を取り上げ戦局に影響はないと判断しました。
軍司令官奥保鞏大将は、信賞必罰を旨とする帝国陸軍の精神に則り、変則的であるが別戦場の功を賞し新連隊長にその「変則」の理由を伝え、真の功績を連隊の歴史として残せるように配慮しました。
あの連隊が挙げた戦功は、偉大すぎるが故に賞することが出来なかったと言えます。
戦争は日本の勝利に終わり、陸軍において戦争の総括が行われましたが、その内容は陸軍の体面に配慮した点が少なからず見受けられました。
部隊においても戦史研究の動きがあり明治四十五年には旅団長の命により首山堡一番乗りの勇者「中村昌」大尉が、戦闘詳報の誤謬を正すとして講話を行ったのが最初になります。
その後も様々な立場から研究がされていきますが、情勢変化に伴う陸軍の拡張は将校団を多忙においこみ詳細な検証を行う余裕を失わせました。
そして状況は一転し軍縮が始まります。
大正十二年名古屋幼年学校は廃止となり、橘中佐の銅像は陸軍士官学校の片隅に安置されることになりました。
国家経済の低迷により人心は荒み、陸軍内部では安直な打開策が議論されるようになります。軍人の本分を忘れ空虚な論争に熱中する様は、心ある将校の目には「劣化」と映りました。
片隅に放置された橘中佐の銅像を前にありし日の激戦を回想すれば、「大隊長殿の居場所はここにはない」と思いを抱いた者は、ある連隊の将校団に大隊長の保護を訴えました。
この声を諒とした当時の連隊長蜂須賀喜信大佐の許には「首山堡会」、地域の有志が参集、関係各所に対し運動が行われ、大正十五年十一月橘中佐像はある連隊に移されます。
更にこの年には櫻井忠温氏原作の日活映画「軍神橘中佐」が公開され、陸軍の宣伝に一役買うはずでしたが、その内容が著しく事実に反するとして内田清一軍曹との間で訴訟に発展。この事件が報道され世間では死んだはずの内田軍曹が生存していたと話題になり、更に文部省が長年放置していた国定教科書の誤記が指摘されます。
その後内田軍曹は「ああ彼の赤い夕陽」と題し戦記を執筆。自身の目に映った「人間 橘周太」を公表し国策として造られた軍神像に対し批判を行いました。この内田軍曹の活動を支えるのは共に死線を越えた「首山堡会」の戦友でした。
一つの銅像がもたらした波紋は様々な方面に影響を及ぼし、そして一点に集約されていきます。
橘中佐像移設の終わった昭和二年、「首山堡会」会長高杉啓次郎中尉は、連隊長「關谷鉻二郎」大佐の銅像建設を訴えました。
「わが連隊は關谷大佐の指揮の下首山堡を戦い抜いたのである。我々の手により連隊長殿の銅像を建立すべきである」
高杉会長に陸軍への忖度はなく、首山堡会の古兵もまた同様でありました。彼らは「關谷大佐と共に戦った我々こそ顕彰する資格がある」との思いを抱いていました。
關谷大佐の銅像建立運動は一地方にとどまらず陸軍中央からも賛同者が現れました。陸軍大臣白川義則大将もその一人であり、参謀本部にもいました。彼らもまた首山堡戦の当事者であったのです。
沢田実氏の手により製作された銅像は、昭和四年八月三十一日連隊長以下五百名の命日に除幕式が行われ、式典は關谷大佐のご遺族を迎え、陸軍大臣代理、地方議員、四百名を超える関係者が参集し厳粛に挙行されました。
日露戦争当時の軍服に身を包んだある老軍曹は、とみ子未亡人と愛孫廉(れん)君の許に至り、ありし日の連隊長を熱心に語っていたと当時の新聞は報じています。
翌年の五月、戦前日本における初の単独地方行幸に静岡県が選ばれ、一般行幸でありながら異例の連隊への行幸が行われることになります。
大元帥陛下の御前に分列行進を行う将兵は、軍神二将と共にありし日の精鋭を現出させ、列席者すべてに深い感銘を与えたのでした。
三十余年の時を経て授けられた無上の栄誉は、かつての勇士に花を添え、連隊の歴史として受け継がれていったのです。
「岳南戦記」は、ある連隊将兵の命を懸けた「賞されざる戦い」の記録であります。