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曇りガラスの向こう側
鈍色の雲が垂れ込める午後、わたしは小さな劇場の一番後ろの席に座っていた。開演前、観客席には淡い期待のざわめきが漂っている。これは大人のラブストーリーだと聞いていた。
けれど幕が上がると、目の前には主演俳優がひとり、固い笑みを浮かべて立っていただけだった。繋がるはずの相手役はどこにもいない。わたしを含む観客たちは妙な違和感を抱えながら、いつか登場するはずの恋人役を待ち続けた。
しかし、それは最初から予測された幻だったのかもしれない。
舞台上のひとり芝居は淡々と進んでいく。主人公は何度も「アイムソーリー」と繰り返すけれど、その声には感情が宿っていない。謝罪と呼ぶにはあまりに空虚で、舞台装置の道具が発する機械音のように聞こえた。
まるで長い時を経て、悲しみに慣れきってしまったかのようだ。そもそも泣くことすら諦めてしまったのだろうか、とわたしは思う。
不意に、別の場面が投影される。遠い空港のロビー、ガラス越しに見える滑走路、そして夜に浮かぶ見知らぬ街の光。あの人と別れたとき、わたしはこう願っていた。
「もし、別の人生を選べたなら」
と。
そのどこか異国めいた場所では、わたし自身も違う性格で、違う関係性で、誰かと笑い合っているかもしれない。それでも、切り替えられる世界線など実際には存在しないと知っている。
ドイツ語で“疑い”を意味する「Zweifel」という言葉が脳裏をかすめたとき、わたしは自分の心が過去の後悔と未練を抱えたまま進めないことに気づく。
舞台の主人公は、誰かの髪に手を伸ばすような仕草をしていた。それは恋人の姿を想定しての演技らしい。わたしは息を呑む。遠ざかる背中を追いかけて、でも、最後には繋いだ手をそっとほどき、観客に向かって静かに「グッバイ」と告げる。
その声は苦しげでありながら、どこか陶酔に似た響きを伴っていた。愛する人への未練と、美しさという名の諦念が同居しているようにも感じられる。
暗転が訪れると同時に、突如として照明が客席を照らした。舞台の奥にあった大きな鏡には、客席のわたしたちが映し出される。
劇場に集まった観客一人ひとりが、まるでその無言の芝居に取り残された存在であるかのように見えた。わたしは反射的に視線を落とし、過去の自分に向けて心の中でそっと「ごめんね」と呟く。
場面が再び変わる。舞台の縁に立った主人公は、飛行機の窓の外を想像するようにゆっくりと手を伸ばす。見知らぬ街の夜景は、恋愛論を一方的に押し付ける人々の声と同じくらい空虚に思える。
その瞬間、胸の奥に小さな棘が疼き始めた。わたし自身の過去の恋愛が、どれほど他人事のように扱われてきたかを思い出したのだ。
次の瞬間、主人公はまっすぐ客席を見つめ、まるで届かない相手へ告げるように「好きだ」と小さく言った。しかし、それはどこか虚しい響きだった。わたしは舞台の演技なのに、なぜか自分の声を聞いている気がして、胸が強く締めつけられる。
クライマックスでは、舞台に描かれた線がエンドラインとして浮かび上がり、主人公はそこに手をつきながら、観客に向けてもう一度だけ「グッバイ」と囁く。
繋いだ手の感触も、未来への希望も、すべては引き伸ばされる終焉だった。そう悟ったとき、客席のあちこちから静かな嗚咽が聞こえた。かくいうわたしも、涙をこぼす寸前で堪えていた。
しかし、最後の照明が落ちる寸前、主人公は小さく微笑んで
「でも、これも悪くない」
と言う。
そしてごく短い間を置いてから
「ロマンスの定めなんて、いつだって曇りガラスみたいなものだろ?」
と続けた。
その声はどこか諦めを帯びていながらも、どこか肯定の響きを含んでいる。永遠も約束もない、それがわかっているからこそ、残された一瞬一瞬が際立って綺麗に思えた。
幕が下り、わたしは席を立てなかった。舞台が終わったはずなのに、なぜか舞台裏に隠された真実にまだ手を伸ばしたい衝動に駆られる。
もしかすると、あのひとり芝居はわたし自身の物語だったのかもしれない。いや、観客としてただ眺めているだけだと高を括っていたのは、自分を守るための言い訳だったのだろう。
外に出ると、雲の切れ間から淡い光が差し込んでいた。道ゆく人々は誰もが日常を生きているように見えるが、その胸の奥に小さな痛みを抱えているのかもしれない。わたしは小さく息を吐いて、思わず髪の先を撫でる。
かつて繋いだ手も、涙も、「グッバイ」の言葉も、すべてはわたしの一部だった。もう戻らない過去に未練を重ねながらも、あの舞台の主人公のように「でも、これも悪くない」と、いつか静かに言える日が来るだろうか。
曇りガラスの向こう側が、少しだけ晴れた気がした。わたしは胸の奥にまだ残る疼きをそっと抱えたまま、劇場の扉を後にする。
誰もいないロビーには、まるで舞台の余韻が溶け込んだかのように、儚くて不思議な静けさが広がっていた。やがてその静寂を破るように、わたしの足音だけがいつまでも響いていた。