虹の向こうに見えたもの
誰もいない放課後の教室で、私は窓の外に伸びる夕日の光をぼんやりと眺めていた。もうすぐ卒業、そして十八歳。
世間から見れば“子どもから大人への境目”と言われる年頃だが、私はただ、これまでと大して変わらない自分をもてあましていた。
私がそんな鬱屈を抱えたまま椅子を立とうとしたとき、ふと、視界の端で空気が揺らめいた。まるで蜃気楼のように、夕焼けの向こうに虹色の層が重なって見えたのだ。
「…何、あれ?」
思わず足を止めるが、次の瞬間には景色は元に戻っている。不意に背筋に冷たいものが走った。このときはまだ、“これ”が単なる見間違いだと思っていた。そう、“あの時点”では。
日常はあっけなく続く。翌日の昼休み、クラスメイトで親友の春香(はるか)が、私の机にこっそりメモを置いていった。
「放課後、体育館の裏に来て。大事な話があるから」
聞けば、近々、彼女の両親の都合で転校しなければならないらしい。卒業前なのに、あまりにも急すぎる。春香の表情は寂しそうで、震える手で私の袖をそっと掴む。
「まだ誰にも言ってないんだけど、先に伝えたくて」
秘密を共有してくれたのは嬉しかった。でも、だからこそ言葉に詰まる。引っ越しが決まっていても、気軽に「大丈夫だよ」なんて言えない。私たちの残り少ない時間が、私の心にざわつきをもたらしていた。
しかし不思議なことに、その日以来、私はまた“あの奇妙な虹色の歪み”を見るようになった。校庭の端、渡り廊下の角、ちょっとした隙間にちらつく虹色の揺らぎ。
一瞬だけ“別の景色”が見えた気がして、思わず足をすくませる。友人に言っても信じてもらえそうになくて、私はその現象を誰にも言えずにいた。
「ねえ、大学進学どうする?」
昼下がりの購買前、春香はふと切り出す。彼女が転校するまで、もうあまり時間が残っていない。せめて残りの学校生活を楽しもうと、二人でパックジュースを啜(すす)りながら話すのが、最近のささやかな習慣だった。
私は答えに詰まった。小さいころから“当たり前”のように言われてきた進学だけれど、自分が本当にそれを望んでいるのか確信がない。別に学力が悪いわけじゃない。けれどそこに“私の意思”があるかと言われると、曖昧でしかないのだ。
「もう、“答えのある勉強”は飽きちゃったな。人生って、模範解答なんてないはずじゃん?」
春香はそう言いながら、自分の進路についても悩んでいることを打ち明けた。転校先でも無難に学生生活を送るのか、それとも全く別の道を探すのか。彼女もきっと迷っている。
それは私たちが初めて“既存のルールや価値観”に正面から疑問を抱いた瞬間だった。テストに出る問題なら答えがある。でも、人間関係や将来のことには決まった答えがない。その違和感が、私たちの会話に緊張感をもたらした。
ある放課後、私はまたしても教室の前を通りがかった廊下で、あの虹色の歪みを目撃した。まるで“ガラスの扉”が空中に浮かんでいるみたいに見える。そう感じた瞬間、その扉の向こうにかすかな草原のような風景が見えたような気がした。
「…幻覚?それとも夢?」
戸惑う私の背後から、春香が声をかけてくる。もちろん彼女には見えていないらしく、「最近、疲れてるんじゃないの?」と首をかしげた。
その夜。私はコンビニ帰りの公園で、ふいに春香と口論になった。何気ない会話のはずだったけれど、お互い進学や転校といった重荷を抱えていたせいか、感情が爆発してしまったのだ。
「そんなに不満があるなら、もう勝手にすればいいじゃない!」
「春香はそうやって逃げるの?教えてよ、本当はどうしたいわけ!?」
一瞬、互いの心がパチリと切り離されるような感覚に襲われた。小さな言い争いが、まるで大きな亀裂になってしまったかのように感じる。
それでも翌日には、ぎこちなく笑い合うのが私たちだった。けれど胸の奥には言えない言葉が残る。
不思議なことに、春香の相談を受けたり、ケンカしたり…その度にあの“虹色の揺らぎ”ははっきりしてくる気がした。まるで私の心情とリンクするように、扉の輪郭が鮮明になるのだ。
けれどそんなこと、誰にも打ち明けられない。私はいつしか、自分の中に新しい秘密を抱え込むようになっていた。春香と交わした秘密の共有が、かえって私の孤独を増すなんて、皮肉なものだ。
卒業まであとわずかとなり、春香の転校日もいよいよ迫っていた。私はせめて、彼女を笑顔で送り出したいと考え、些細な衝突は反省して、気持ちを整理するように努める。
するとある日、下校途中にまたしても“あの扉”が見えた。今度ははっきりと、輪郭どころか扉そのものが存在するかのようだった。虹色の光に満ちた向こう側に、見知らぬ草原が広がっている。まるでファンタジー小説のような風景が、一瞬だけ“現実”に重なるのだ。
私は一歩、扉の方へ近づいた。すると、不思議と怖さはなかった。むしろ、引き寄せられるように。
「ここが、私の求めていた答えなの?」
いつもなら疑問を抱いて立ち尽くすだけの私だったが、そのときばかりは頭が冴えていた。手を伸ばそうとすると、背後から春香の声がする。
「ちょっと待って!どこへ行こうとしてるの…?」
振り向くと、息を切らしながら春香が立っていた。私たちはお互いの存在を再確認するように、目と目を合わせる。
私は心の底から湧き上がる想いを口にする。
「私、ずっと逃げてたんだと思う。学校や進学の不安、別れが来るのが怖くて。だけど…何か“違う世界”があるなら、そこで自分の道を見つけられるかもしれないって、思っちゃったの」
春香は悲しそうに微笑んだ。
「そっか。でも…私も同じだよ。別の場所に行けば、もしかして答えが見つかるかもしれないって。だから、もし一緒に行けるなら…」
その瞬間、扉の光が強くなった。まるで私たち二人を歓迎するかのように、虹色の渦がゆっくりと広がる。
次に気がつくと、私は見知らぬ草原に立っていた。鮮やかな緑と澄んだ空、遠くに連なる山々。時折、空を舞う鳥の影が大きすぎるように見えるのは気のせいだろうか。何より、隣には春香がいる。彼女も目を丸くしているが、それでもなぜか少し笑顔だ。
「あの扉、やっぱり…」
見回しても、さっきの“虹色の揺らぎ”は見当たらない。代わりに、この世界の空には淡い虹がかかっていた。
私たちは無言で歩き始めた。確かな実感を伴って足を踏み出すと、心の内側から“ここでやっていけるかも”という希望が生まれる。
だけど、本当にこれは“現実”なのか?一方で、“あちら”の世界…教室や校舎、友人たちや家族はどうなったのか。
草原の風が私の髪を揺らしたとき、不意に春香が、目を伏せたまま呟く。
「私たちって、どこか別の世界に来ちゃったのかな。それとも…これは夢?ねえ、どう思う?」
私はゆっくりと首を振る。
「わからない。でも、どんな形でも“ここ”は私たちが選び取った場所だと思う」
こうして、いつもの日常から抜け出した私たちは、見知らぬ世界で歩き始めた。誰からも提示されない“問い”に向き合い、自分の答えを探すために。
だけど、本当にこれが、私たちが心の奥で願っていた“もうひとつの現実”がかたちを伴って現れただけなのか…。
どうであれ、私たちが進む先に“正解”はない。ただ、自分たちがどう生きたいかを、二人でこれから見つけていくのだ。
少なくとも私たちは、答えを持たないまま、それでも胸を張って歩いていく。答えのない冒険こそが、十八歳の私たちに与えられた“問い”なのだと信じながら。