あの日の海に、もういちど
「もし、あのときに戻れたなら、私は何を選んだのだろう」
四十歳のある夜、更けゆく街の静寂に紛れながら、明香(あすか)はふとそんな想いに囚われた。部屋の明かりを落としたリビングで、小さなランプの灯だけが彼女の手元を照らしている。無造作に積まれたアルバムやノート。厚い背表紙に刻まれた年号は、もう二度と戻れない時間を、曖昧に示していた。
ちょうど二十年前。二十歳の成人式を迎えたあの日、明香は友人たちと真冬の海辺で撮った写真を思い出す。振袖にコートを羽織り、凍える指先を海風に晒してはしゃいでいる姿。
写真の中で微笑む彼女たちは、これから訪れるはずの未来に、疑いようのない希望を抱いていた。明香もまた、そのうちの一人だった。
「二十歳の自分」という存在は、これからの人生のすべてがひらけているかのように見えて、実際には無数の分岐点のうちのどれかを選んでは迷い、そして間違うことだってある。
それでも、当時の明香には、あの瞬間のきらめきこそが永遠に続くように思えたのだ。だが、現実はそう甘くはなかった。
成人式の翌日、明香は初めて「自分の夢」を語ってみせる。大学の講義室で、仲の良かった友人に向かって「私は舞台女優になりたいの」と。
ずっと胸の中で暖めてきた想いを声に出したとき、両肩にかかっていた重い外套がすっと消えてしまうかのような解放感があった。友人たちは拍手喝采で、彼女の夢を応援してくれた。
けれど、ほどなくして現れたのは現実の壁。オーディションに落ち続ける日々や、生活費を稼ぐためのバイト三昧。周りからは「夢だけで食っていけるの?」と鋭い問いが投げつけられ、そうされるたびに心臓が縮こまるような息苦しさを覚えた。
「もっと地に足をつけなよ」
その声はやがて、明香自身の内側にまで入り込み、
「本当にこのままでいいの?」
と自問自答を繰り返させた。
そして、舞台の道をあきらめる決断を下したのは二十三の頃。もう少し頑張れたかもしれない。あとほんの少し踏ん張っていたら、何か変わったのではないか。
そんなわずかな後悔が、三十を越えても四十の今になっても、消えることなく残り続けている。
夢を手放してから数年後、明香は結婚をし、一般企業に勤めた。最初はまったく興味のなかった事務仕事だったが、上司や同僚に恵まれ、地道に努力することで段々と責任ある立場を任されるようになった。
いつの間にか、
「この仕事は私の天職だわ」
と言えるほど、忙しくも充実した日々を送っていた。
だが、ある日ふとカレンダーを眺めて気づく。あの成人式から、もう二十年が経っている。普段は家族や仕事のことで頭がいっぱいになり、気がつけば一日が終わっている。
それでも少し時間が空くと、
「もし、あのとき別の選択をしていたら」
と考えてしまうのだ。
その度に、心のどこかがきゅっと締めつけられる。自分があの舞台の世界にいなかったこと、女優として挑戦を続けられなかったことが、いまだに引っかかっている。
「結局、自分は逃げたんじゃないか?」
そんな暗い問いが頭をもたげるたび、今の平穏な生活がまるで借り物のように感じられてしまう。素敵な夫や子ども、そしてここまで積み上げてきた仕事の実績。大切なものに囲まれているはずなのに、時々、自分の本当の姿を見失うのだ。
明香はネットで見つけた写真を眺めていた。真冬の海辺を写した最近の一枚。まるであの成人式の日と同じように、切り取られた浜辺には白い波が寄せては返す。その光景を見つめながら、あのときの自分に問いかける。
「あなたは、幸せになれたと思う?」
答えは風の音にかき消される。けれど、写真越しにしんしんと伝わってくる冷たい空気と青い海が、当時のままの姿で心の奥に流れ込んでくるようだった。すべてが始まる前の、あの新成人としての一瞬の輝き。それを思い出すほどに、胸の奥に悔しさと恥ずかしさとがない交ぜになって渦巻く。
「もし、あのときに戻れたなら…」
そう呟いた瞬間、瞼の裏に走馬灯のように広がるのは、鮮やかな舞台のスポットライト。夢を追いかけてがむしゃらに生きた、あの数年間の熱量だ。大勢の観客の視線を浴び、汗が光る額、バクバクと高鳴る鼓動。あのときの自分は、どこまでも突き進む力があったように思う。
夜が深くなり、電気を消した部屋の中には自分の呼吸だけがはっきりと聞こえるようになった。どこか遠くで車のエンジン音が聞こえ、それにかき消されるように、明香の心臓がかすかに鼓動を打つ。
ふと気づく。今はもう、あの舞台には立っていない。だけど、あのころの情熱が完全に消えてしまったわけじゃない。一度失ったと感じた火種は、まだ心の片隅で小さく燻っている。女優になれなかったことは後悔している。
だけど、だからといって、今の生活が無意味なわけじゃない。もしあのころに夢を叶えていたとしても、今の家族や仲間との出会いが失われていたかもしれないのだ。
「私はもう一度、あのときの熱を取り戻せるのかもしれない。形は違っても、何かを表現したり、伝えたりすることで……」
そう思うと不思議と心が軽くなった。人生の途中で選ばなかった道があれば、代わりに選んだ道もある。それが後悔とともに歩んできた二十年だとしても、それだけでは終わらないはずだ。
翌朝、明香はいつも通りスーツを纏い出勤する。オフィスビルのエレベーターで鏡に映る自分を見て、思わず笑みがこぼれる。
「四十歳、悪くないじゃない?」
心の中でそう呟くと、足取りがほんの少しだけ軽く感じられた。夢を追い続けていた二十歳の自分には戻れない。けれど、今の自分にしかできないことが、きっとあるはずだ。
仕事で培ったスキルも、母親としての経験も、すべて自分というステージの一部になっている。むしろ、あの頃よりもずっと大きな舞台で、自分の人生を演じられるんじゃないか。そんな期待が、胸の奥で小さく芽吹いた。
昼休み、手帳を開き、今週末に開催される「大人の演劇ワークショップ」の広告を見つめる。数日前、SNSで偶然流れてきた情報だ。年齢や経験を問わない演技指導に興味が湧いたが、「今さら…」と心にブレーキをかけていた。
けれど、今は少し違う。もし挑戦してみて失敗したとしても、それは別に悲しいことじゃない。そこからまた学べばいい。後悔という荷物を抱えた四十歳の女性には、二十歳の自分よりも力強い人生の土台があるのだ。
誰かにとやかく言われても、もう振袖を着て海辺ではしゃいでいた若かりし日々には戻れない。でも、その先の今日をどう生きるかは、自分次第だ。
退勤後、オフィス街を抜けて夕暮れの公園を歩く。空には茜色のグラデーションが広がり、遠くに残る雲が金色に照らされている。木々の間を吹き抜ける風が冷たく、あの日の冬の海を思い出させる。
「もう一度、あの日に戻れたら…」
その呟きは、かつては心を締めつける言葉だった。けれど今は、どこか前向きな響きに変わりつつある。
もし二十歳に戻れたら、もっとバカみたいにがむしゃらに夢を追ったかもしれない。もっと素直に情熱を燃やせたかもしれない。
でも、今の私は、そのとき見られなかった景色を知っている。大切な人たちとのかけがえのない思い出も、挫折を乗り越えた先に得た自信も、すべて抱えたまま前に進んでいく。
そう、戻れないからこそ、今の自分にできることがある。後悔は確かに辛いけれど、同時に未来の種でもある。時は巻き戻せないけれど、そこから芽生える力を信じてみる価値はあるのだ。
帰宅後、夜も更けたリビングで、子どもたちが寝静まったあとにこっそりパソコンを開く。SNSで見つけたワークショップの詳細ページを開いてみると、そこには「未経験歓迎」「年齢不問」「表現する喜びを体感しよう」という文字が踊っていた。
「行ってみるのも悪くないか」
ほんの少しだけ心臓が高鳴る。この感覚は久しぶりだ。二十歳の頃、オーディション会場へ向かう電車の中で感じた、あのドキドキに似ている。
とはいえ今の私は、あの頃のように一日中レッスンに打ち込むことはできない。家庭も仕事もある。でも、だからこそ、このワークショップが人生をもう一度照らし出す小さな灯火になるのではないかと、期待を抱いている自分がいる。
マウスをクリックして、申し込みフォームへ。名前、連絡先、年齢――記入しながら、思わず吹き出してしまった。二十歳のときには存在しなかった「職業」や「年齢」の欄が、こんなにも重たい肩書に思えるとは。だけど、不思議と嬉しい。
これが私の人生なのだ。二十歳の私と、二十年かけて歩んできた私。そのすべてが詰まった自分として、もう一度表現の世界に足を踏み入れるのは、怖いけれど同時にとてもわくわくする。
申し込みボタンを押し、パソコンを閉じる。静かな部屋に満ちるのは、冷たい空気と心臓の鼓動。いつの間にか、窓の外では朝日が薄闇を切り裂き始めていた。
ゆっくりとカーテンを開くと、オレンジ色に染まる夜明けの空が視界に飛び込んでくる。心の奥底で眠っていた熱が、じわりじわりと沸き立つのを感じる。
まるで長い旅路を終えて、今まさに新しい旅へと出発する瞬間のような気がした。人生という名の舞台は、いつだって続いている。たとえどんなに遠回りをしても、未練を抱えていても、それは終わりじゃない。
「あのときに戻れたら」
そう願う心は、決して卑屈な未練ばかりではなく、これからを拓くための鍵でもある。
あの冬の海と、真っ直ぐに未来を見つめていた二十歳の自分がくれる力。それを胸に抱いて、一歩を踏み出す。もう一度、舞台の上で光を浴びる日が来るかもしれない。あるいは、まったく別の形で「表現する喜び」を知るのかもしれない。
それでもいい。後悔は、過去だけを見つめさせる言葉じゃない。人は誰しも時間を巻き戻すことはできないけれど、その先の人生を自分の色で彩っていくことはできる。明香は、そう信じている。
海は今も、あの日と同じように青く、波を描き続けているだろう。あの日の海に戻ることは叶わない。だけど、二十年分の想いを抱えて、その海の前に再び立ったとき、私はきっと違う景色を見ることができるはずだ。
たとえ真冬の凍てつく風が頬を切っても、もう怯えない。そう、私はこれから、自分の人生を演じ直すのだ。長い夜を越え、朝日はまた昇ってくる。
あの日の海に、もういちど。けれど、その海はもう「過去」ではない。今度こそ新しい景色を探しにいくんだ。そう決めた明香の目には、希望の光がはっきりと宿っていた。