また、やってしまいそう(短歌も)

「またやってしまいそう」の意味を確認してみよう。あまりにも適当で誰かに怒られそうだけど。

・「また」副詞
→前にあったことがもう一度繰り返されるさま。ふたたび。

・「やる」 動詞ラ行五段
→何かをすることを、広く、または漠然という。する。行う。営む。

・「〜やりそうだ」動詞ラ行五段+助動詞
→なにか行動がなされという想像、その前段階

・「使僧」(しそう)
→遣いとして参上する僧侶。

辞書的な意味としては「前と同じ行動を再び行なってしまうという予測」となる。うーむ、ちょっと漠然としている。もう少し具体的に何をやるのか知りたいところであります。
一体何をやるのか、わたしの辞書を開くとそこには「不倫」とある。

・「またやってしまいそう」 名詞
→10歳以上離れた人と不倫すること、またはその予感


そう、いまわたしには不倫して欲しい人がいます。

もしかしたらわたしは今世では使僧で、不倫修行をする身として派遣されたのかも知れない。勤しみが足りていないのだろうか...。

中学生辺りから、素敵だなと思う人は年上の男性ばかりだった。それも30代〜40代半ばくらいの。30代という理由で数学の先生に恋をした。高校ではサッカー部の子を好きになったけど(その人にゴブリンと呼ばれた話も後々書きたい)。
大学に入ってからはもうおじさんに次ぐおじさん。20歳を超えればなんとなくおじさん達の倫理観も緩くなるのか、一緒に遊んでくれることが増えた。「可愛いね」って言ってくれて、ご飯もご馳走してくれて、理性と性欲のマーブル模様となって手を繋いでくれる。その背後には家族がいると知ってても。

最後に不倫した人のお連れ合いの方が元レディース総長、そのお兄さんは今も自由業をされており2ヶ月前から所在不明と言うことを聞いて慌てて不倫から足を洗った。あぶねぇ腎臓がひとつになるところだった。
誰かの夫や父と寝れば、その人の家族とほんのり関係を持ってしまう。永遠に他人のはずだった純太くんの入学式が、昨日あったことを知ったりする。

不倫、かっこわるい。本当は良くない事は分かっている。他人が築いてきた幸せを横から突いたその時に、石抱きの刑に処されるべきだった。洗う足も無いほどに砕けて血まみれになるべきだった。


誰かを愛している人の、誰かに愛されている人の纏う粒子が私も欲しい。わたしが恋した人たちが持っていた安心感、安定感、優しさ、その源にある愛情に触れてみたかった。愛にだって個性があって、その人の育ってきた環境や人間関係で違ってくる。ベタベタ捏ねた後に見せつけてくれる、「これが愛だよ」という傲慢とも思える所作にたくさん見惚れた。

そして現在、その強くて丈夫な体で痛く強く抱きしめて欲しいと思う人がいる。「わたしはあの人だけが持つ愛が欲しい」なんて、もうそこまでは言わない。ただ痛く抱きしめて欲しい。なんなら骨の一本イカせてもいい。
その人の胸の筋肉に頬を寄せて、肩甲骨に爪を立てないように注意して引き寄せる。わたしの腰に締まった腕が回されて、もう片方の手で後頭部を撫でてくれる。固いけど意外と人間らしい肉体と骨を感じて、息を吐く。その瞬間だけ世界中の時計が壊れて欲しい。
下心なしにハグされる/することは可能だろうか。

処刑人達が私を監視している。熱視線かな。


ゆりかごに帰る誰かのための灯よ
蛾はその気配に卑しく寄り添う

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