10マインドフル・ステップス 仏陀の次第説法③天の話:前編

皆さんこんにちは。

前回の10マインドフル・ステップス 仏陀の次第説法②戒の話:後編では、仏陀の次第説法の戒の話についての説明をさせていただきました。

今回は、仏陀の次第説法の三番目のステップである天の話について解説したいと思います。

前回までの解説で、布施や戒を守ることで功徳が積まれるという説明をしたので、今回の天の話ではその功徳がどのように果報をもたらすのかについて解説したいと思います。

功徳の果報の話に入る前に、前提知識として必要な五道輪廻の説明を先にしたいと思います。


天界の生命とはなにか

仏教では輪廻転生を説いていますので、五道や六道輪廻などと呼ばれる様々な生命の次元があると説明されています。

初期経典では、五道輪廻として地獄・畜生・餓鬼・人・天の順番で説かれていますのでそれに合わせて解説したいと思います。

生命の次元を五種類に分類した場合に、もっとも恵まれた生活環境で暮らしている生命のグループを天界の生命(天人)と呼称しています。

天界の生命には、欲界と色界と無色界の三種類の次元があるので欲界次元の生命を神々、色界と無色界の生命を梵天と分類しています。


欲界

欲界は、人間や畜生達も生活している眼耳鼻舌身の感覚器官の情報に依存している生命次元ですので、欲界の神々にも物質的な感覚器官としての身体はあります。

欲界の天人が生活している領域は、六欲天とも呼ばれていて、⑥他化自在天(たけじざいてん、マーラの住む場所)、⑤化楽天(けらくてん)、④兜率天(とそつてん)、③夜摩天(やまてん)、②忉利天(とうりてん、三十三天=さんじゅうさんてん、帝釈天の住む場所)、①四大王衆天(しだいおうしゅてん、四天王の住む場所)の六つの階層に分けて説明されています。

仏典に登場するマーラや帝釈天などは六欲天の天人で、兜率天(とそつてん)と忉利天(とおりてん)には功徳を積んで昇天した仏教徒が多く暮らしているとされています。


色界

五感で楽しむ欲界の次元を越えた色界には、色界梵天と呼ばれる生命が暮らしているとされています。

色界の梵天には身体はないのですが、物質的な依り代のような物は必要という生命形態です。

仏教では、瞑想修行を行って五感で感じる五欲に対する執着を破って禅定に達した修行者が死後に赴く境涯が色界・無色界の梵天だとされています。

禅定は、色界禅定が四種類と無色界禅定が四種類の八種類があり、それぞれが色界と無色界の梵天の境涯に対応して説明されています。

色界には、無想有情天(むそううじょうてん)と浄居天(じょうごてん)と呼ばれる特殊な梵天も居ます。

無想有情天は、禅定に入って心が殆ど働かない思考停止状態に執着して耽溺した凡夫の修行者が死後に赴く境涯です。

煩悩は随眠したまま心が殆ど働かない状態なので、コミュニケーションを取ることが不可能で永い間無知の静寂に浸り続けるという境涯なので仏教では悪趣扱いされています。

浄居天は、不還果(三番目の悟りの境地、二度と欲界には還れず入滅する)の聖者が死後に往生して僅かに残った煩悩が尽きて入滅するまで過ごす浄居天という特殊な領域があるとされています。


無色界

色界の梵天とは違い、物質に依拠する次元を越えた無色界の梵天は心のみが働いているという特殊な生命形態です。

無色界の梵天には、物質的な依り代がないのでコミュニケーションを取ることが出来ないとされています。

色界の無想有情天と無色界の梵天は、コミュニケーションが成立しないので仏典に登場する梵天(ブラフマン)は全て無想有情天以外の色界の梵天達です。


仏教での天人の扱い

仏教では、基本的には有学に悟っていない凡夫の神々や梵天は煩悩の束縛に支配された無知な生命(衆生・有情)として扱っていますので、一般的な宗教のように神々や梵天を創造主や支配者や救済者として特別扱いして崇拝する思想はありません。

天界の生命は一般的な宗教の崇拝としての神様ではなく、輪廻している生命としての衆生を生存領域や生存形態で分類した場合の一形態やグループだと理解した方が適切なのです。

仏教では常住論(永遠に存在する)を説いていませんので、地獄や天界は生命が様々な因縁によって一時的に住することになる次元ですから寿命が尽きればまた別の境涯に輪廻します。

欲界には、悟っていない凡夫の神々と、預流果(よるか:悟りの第一段階)と一来果(いちらいか:悟りの第二段階)に達している有学の神々がいます。

色界には、悟っていない凡夫の梵天と、預流果と一来果と不還果の有学の梵天がいます。


善趣と悪趣について

仏教では、悟る可能性がある境涯を善趣(ぜんしゅ)、悟る可能性が無い境涯を悪趣(あくしゅ)として分類する場合もあります。

五道輪廻の場合は地獄・畜生・餓鬼の三種類は悪趣の生命形態であり、人・天は善趣の生命形態であると説明されます。

一部の餓鬼などの例外を除けば、基本的には悪趣の生命は悟ることができないとされています。

善趣の生命の場合は、無想有情天や無色界の梵天などの一部の特殊な生命以外は悟ることが可能だとされています。

特殊な例外として、悟る機根や条件が揃っているかという視点で分類すると、一部の餓鬼などは善趣に含まれる場合もありますし、色界の無想有情天や無色界の梵天は悪趣扱いされる場合もあります。

また、広義での地獄(ニラヤ)の生命には畜生道や餓鬼道も含んだ形で説かれる場合もあります。


悪趣の生命

今回のテーマからは離れますが、地獄や畜生道や餓鬼道の生命についても簡単に説明しておきます。

パーリ仏典では、基本的には地獄・畜生道・餓鬼道の順番で苦しみが大きい境涯であると説明されています。

地獄の生命は、苦痛で常に心が乱れていたり孤立状態で永い間苦しむという境涯なので悪業が尽きて地獄から抜け出すまではコミュニケーションが成立しないので説法して救うことはできないのです。

畜生道の生命の場合は、地獄よりは苦しみはマシですが本能に支配された無知な生命次元なので基本的にはコミュニケーションが成立しないので説法して救うことはできないのです。

畜生の場合は、地獄の生命とは違い肉体があって同じ欲界の次元で生活している多少は交流可能な生命なので、聖者と関わることで心が善い影響を受けて感化されて悪趣の境涯から抜け出して善趣の神々などに転生してから再度説法等を受けて悟ったという特殊な事例も幾つか経典に収録されています。

餓鬼道の生命の場合は、基本的には元人間などの知的能力の高い生命が五欲やその対象物に異常な貪欲を抱いて激しく執着した結果堕ちる境涯なので、経典によると生前の記憶を憶えていて波長があってコミュニケーション可能な人間を見つけると怨み辛みを語ったりするという特徴があるようです。

元人間で高度な知的能力とコミュニケーション能力がある餓鬼の場合は、縁者などが餓鬼供養をすることで悪趣の境涯から抜け出す手助けをすることが可能な場合もありますので仏教では餓鬼供養なども説いているのです。


重要なポイント

・生命の境涯には、地獄、畜生道、餓鬼道、人、天の五道があります。

・生命が輪廻する世界には、欲界と色界と無色界の三つの次元があります。

・神々や梵天にも、悟っていない凡夫の衆生と有学に悟っている聖者の二種類がいます。

・悟るために必要な機根や条件で分類すると、一部の餓鬼などは善趣(悟る能力がある)扱いされたり、色界の無想有情天や無色界の梵天などは悪趣(悟る能力がない)扱いされたりという例外があり得ます。

・仏教では、基本的には有学に悟っていない凡夫の神々や梵天は煩悩の束縛に支配された無知な生命(衆生・有情)として扱っていますので、一般的な宗教のように神々や梵天を創造主や支配者や救済者として特別扱いして崇拝する思想はありません。


終わり

今回は、仏陀の次第説法の三番目のステップである天の話についての解説に入るために、前提知識として必要な五道や天界や神々や梵天などについての説明をさせていただきました。

次回の10マインドフル・ステップス 仏陀の次第説法③天の話:後編では、仏陀が天の話を説いた理由や天に赴く方法などについての解説をしたいと予定しています。

ここまで読んで下さった方々に智慧の光が現れますようにと御祈念申し上げます。