見出し画像

ボードゲーム『ito』を哲学する

はじめに


 こんにちは、あだちと申します。
 簡潔に自己紹介をすると、僕は現在大学3年生で、哲学を専攻しています。所属しているサークルで、よくボードゲームで遊びます(ボドゲサークルというわけではないですが)。

手乗りのガシャポンito(ギリ遊べます)


(24年から)哲学を専攻しているということもあり、物事に関して、あーでもないこーでもないと考える機会が増えました。
 特に、各ゲームの「どのような部分が面白いと感じさせるのか」ということについて関心があり、本記事を執筆するに至りました(実際に大学での僕の研究分野は、面白さや笑いについて考えるというものです)。
 本記事ではそんな関心のアウトプットの第一弾(続くかはわかりません)として『ito』というボードゲームを題材にして、哲学を専攻している大学生としての僕が考えたことを書いていきたいと思います。
 しばしの間、お付き合いください。


そもそも『ito』とはどのようなゲームなのか


 そもそも『ito』ってどんなゲームなんだ⁉という方は、公式が説明してくださっているのでそちらを確認してみるとよいと思います。

公式の説明ページ(リンクに飛びます)
・紹介動画

 実際にプレイしてみるのがダイレクトに面白さが理解できると思います。 
 僕がよく遊ぶのは「クモノイト」という方のルールなのですが、カンタンに言えば

①各プレイヤーに数字(1~100)が書かれたカードが配られる
②お題に沿って、自分が持っているカードの数字をお題に沿って伝える(数字を直接言うのはダメ!
③議論を重ねて、数字が低いと思ったカードから順に公開していき、全員が全カードを公開できれば成功!

という流れになります。
 ②のお題というのは沢山用意されていて、「生き物の大きさ」(100に近いほど大きい動物、1に近いほど小さい動物で表現します)や「楽しいこと」(100⇔1 楽しい⇔苦しい、つまらない)などがあります。
 このお題に沿って自分の数字がどのくらいなのか伝えるというのがこのゲームの一番面白いところであり、また一番難しい部分でもあります。
 「生き物の大きさ」というお題の場合、例えば自分が引いた数字が「100」に近しければゾウやマンモスだとか、「1」に近い数字ならアリとかミジンコとか、比較的簡単に伝えることができます。
 しかし自分が「58」などの絶妙な数字を引いてしまった時を想像してみてください。(これは犬?それともネコ?それだとちょっと小さすぎるかも、オオカミくらいなのか……?)というように、伝達の難易度が一気に上がると思います。
 よくやってしまうのが「50だったら犬とかよね?」みたいな、全員が共有できる「基準」の柱を打ち立ててしまうこと。
 そもそも、このゲームのお題には「犬が50」というような基準は定められていません(※難易度が上がった最終ラウンドでは定めます)し、そのようにプレイヤー間で示し合わせるのも多分ダメです。数字(おそらく、自分が持っていないものも)を直接言うのがダメ、というルールがあるためです。

「生き物の大きさ」についての価値観は各々異なるものである、という前提がこのゲームを成立させています。全員が「生き物の大きさ」に関する全く同じ感覚を持っているのであれば、このゲームはとても単調なものになってしまうでしょう。
 『ito』制作サイドの工夫としても、この「価値観をズレさせるお題を作る」という部分においては細心の注意を払っていると思います。「判断に具体的な数字を用いるもの」はお題に組み込んでいないのではないでしょうか。例えば、「歴史上の出来事」のようなお題があるとして、そのようなものは○○年に起こった、という事が言えてしまうので、引いた数字とひっかけて回答することができてしまいます。それでもゲームとしては面白いかもしれませんが、『ito』 というゲームの趣旨からは外れてしまうでしょう。
 実際のお題を確認すると、「○○の人気」とか、「○○の強さ」、「なりたい○○」のような量的でないものが出題されています。お題がそもそも数的ではいけないのです。


価値観のズレがなぜ面白い?

 本記事のサビの部分になりますが、まず確認しなければならないことが一つ。それは「面白さにも種類がある」ということです。
 英語には「interesting」や「funny」のように、面白さを表す単語が複数ありますが、それぞれ「興味関心が刺激される」、「可笑しい」(僕が大学で研究対象にしているのはこっちです)と換言することができます。
 そういった前提を把握したうえで、『ito』は両方の「面白い」を持ち合わせていると言えます。
 「interesting」な面白さは、ゲームを通じて他プレイヤーの人物理解ができるという点が挙げられると思います。順番通りにカードが出せず、結果的にゲームとしては失敗してしまったとしても、それはプレイヤーの価値観の共有、ひいては理解につながります。「こいつはこういうヤツなんだ」、みたいな見方の精度が上がっていきます。こうした理解は以降のゲームを成功させるためにも役立つでしょう。
 では、「funny」な面白さについてはどうでしょうか。公式の説明に「価値観のズレに大笑い」とありますが、この部分はまさに「funny」な笑いを説明している文言だと思います。実際にプレイをすればわかるのですが、この文言は大言壮語ではなく、確かにゲームが価値観のズレのせいで上手く立ち行かなくても、「おもんな。」という感じにはあまりならないと思います。むしろ、その後の感想戦で「なんて言い訳するのか聞いてやろう」という感じのワクワクすらあるでしょう。『ito』においては、我々はゲームを成功させて快感情を得る、という報酬系のみでゲームを楽しんでいるわけではない、と言えるでしょう。では何が楽しいのかと言えば、それこそが「価値観のズレ」なのだと思います。
 では、そもそも価値観がズレているとなぜ面白いのでしょうか。
 このような「可笑しさの原因とは何か」という哲学的な問いに対して、「ズレ」の理論から説明を試みる立場があります。「不一致説」とか「不適合説」などと呼ばれる立場です。
 『ito』において何がズレるのかと言えば、プレイヤーが伝えたい数字と、他プレイヤーが想像している数字でしょう。そこで起こっているのは「予想」と「予想の裏切り」です。
 まず、「予想」というのは、説明を聞いて「まあ、このくらいの数字だろうな」と思うことに当たります。そしてこの「予想」というのは、自分の中にある常識が根拠になっています。我々は各々が持ち合わせる常識に従って、次に起こる物事を予測しています。
 ですが、予想が常に当たっているとは限りません。むしろ、往々にして外れるものです。自分が想像していた数字と、公開されめくられた数字には乖離があった。張りつめた糸がプツっと切れるように、打ち立てていた予想は崩れ去ることになります。
 ここで重要なのは、他プレイヤーも自分のものとは異なる、独自の常識を持ち合わせているということです。予想が外れるということを通じて、私たちは「自分は持っていない、他人の常識」との邂逅を果たします。
 それによって、私たちは凝り固まった「自分の中だけの常識」から解放されます。そこから生じる喜びが、「ズレの笑い」の正体と言えるのです。

 このような笑いの理論はカントが発祥とされています。調べれば出てくると思いますので、詳細が気になった方はそうしてみることをおすすめします。 


哲学カフェ風ゲーム


「哲学カフェ」と呼ばれる試みをご存じでしょうか。
 今日本で行われている「哲学カフェ」は、カフェや貸会議室で自由に集まって、司会・進行役が用意してくる哲学的な話題(愛とは何か、死について、など)や各々が抱えている悩みについて、フランクに語り合う場所、またそのような機会のことを指します。全国的に行われている試みのようです。

哲学カフェ・哲学対話ガイド(サイトに飛びます)

 僕が大学で所属しているゼミでも、たまに開催されます。こないだは

・男性が女性に向けて言う「皿洗い、やっておいてあげたよ」がもつ意味
・芸術と道徳は両立できるか?

という話題で意見を交わし合いました。
 具体的にどんなことをするの?という疑問は哲学にはつきものだと思いますし、僕も大学に入るまでは(何なら3年になってゼミに入るまで)よくわかっていませんでした。「哲学カフェ」はそういった「哲学」のとっつきづらさを解消できる可能性があって、一般の方にも哲学の裾野を広げることができる、とても良いイベントであると思っています。
 なぜいきなりこのような話をしたのかというと、『ito』と哲学カフェ、何やら似ているところがあるのでは……と思ったためです。
 というのも、『ito』のお題には、そのまま哲学カフェで用いることができそうなものが複数存在しています。例えば、

・美しいもの(通常版)
・カッコいいもの(通常版)
・幸せを感じること(レインボー)
・生きる上で大切なこと(レインボー)

といったものです。何を美しいorカッコいいと思うかは感覚の話じゃないかと思われるかもしれませんが、美学という、哲学の一分野で実際に扱われるトピックです。「幸せとは何か」「生きる上で何が大切なのか」というのは最も哲学らしい問いかけで、「人生の意味」のような話題と関連してきます。我々はゲーム内で、このようなお題に沿って対話を繰り広げます。                                                                  
 『ito』のこういう所に、僕は哲学カフェの様相を感じました。今例示したお題以外でも、互いに異なる価値観同士が交流する、という点において哲学対話的であると言えます。ただ厳密には異なる部分もあって、哲学カフェでは話題に対する定まった回答が提示されないまま終わる場合が多い(答えを出すにしても、とりあえず仮置きしておく、といったことが多いです)のに対して、『ito』はゲームとしての側面を持っている以上、どこかで話題に区切りをつけなければいけません。
 しかし、他人同士の価値観のぶつかり合い、揺さぶられ合いが起こる、という特徴は共通していると言えるでしょう。『ito』というゲーム自体が、哲学カフェにおける進行と同じ役割を果たしているのです。


おわりに


 以上、僕が『ito』を何回もプレイして楽しんだ上で、僕の中に出力された

・「価値観のズレが面白い!」に対する考察
・『ito』のゲーム性に組み込まれた哲学対話的要素

の2点をまとめました。全体像には程遠いですが、所感のアウトプットができたと思います。
 このように考えてみることは、ゲームの本質を捉えること、ひいては製作者がゲームに込めた意図を捉えることに繋がります。改めて『ito』が持つ面白さに気付かされましたし、成功しても失敗しても面白いように作られているゲームデザインに大感心です。何より、ゲームのどのような部分が面白いのか、という魅力をハッキリと伝えることができるようになりますし、おススメもしやすくなります。
 
 また、哲学というのは簡潔に言えば「一つのある問いに対して、あーでもないこーでもないと延々と言い続ける学問」です。明確なアンサーは哲学においては存在しないと言ってよいでしょう。なのでカントの笑いの理論以外でも、「価値観のズレがなぜ面白いのか」などについては説明ができると思います。先の笑いの理論や僕の語り口を見て「そうじゃなくね?」と思ったのであれば、それが哲学の始まりです。自分がそうだと思った理論で再解釈してみるのもアリでしょう。本記事を読んで「俺/私はこう思う!」と感じたことがあれば、是非教えて頂きたいと思います。
 お付き合いいただき、ありがとうございました。『ito』でも、また別のゲームでも何か考えたことがあれば、またこのような形にして投下したいと思います。

いいなと思ったら応援しよう!