#012-4 「駈込み訴え」/太宰治 読書ノート④〜文学はユダ的なものに,深く寄り添う
Lectioの純文学の読書会にて先日,太宰治の「駈込み訴え」を読みました.読書ノートとして感想や考えたことを備忘録的に書きたいと思います.
前回③では,イエスもユダも「寂しさ」を根底に抱えて生きているという点で「同じ」存在ですが,信仰によって「寂しさ」を乗り越えようとするイエスの在り方は,ユダの他者依存的に寂しさを慰めようとする在り方とは根本的に違う,ということを読みました.
前回③の読書ノートの最後に僕は「もう一つ,引っかかる点がある」と書きました.それがまだモヤモヤしています.うまく言語化できるか分かりませんが,書いてみます.
引っかかるのは例えば次のようなやりとりです.
イエスがユダに優しげに諭します.
はっきりとしたイエスの生き様です.信仰といういわば縦軸を言っています.
これに対して,ユダもまるで相似形のような価値観で返報します.
①の読書ノートでも,一神教の神への信仰は,日本的な世間への目配りと根本的に違うものだという発見がありました.それはそれでイエスの在り方の孤独さや厳しさを理解するヒントとなりました.
けれども,ここでのユダの語りの中には,その神への信仰に真っ向から対立するような力強さを正直言って感じてしまいます.
ユダは「天の父」に分かってもらわなくても良いと言い切ります.続けて「世間の者」にすら知られなくとも良いとも言い切ります.彼が承認して欲しいのは,ただ目の前の具体的で唯一の人物=イエスだけです.しかも神の子イエスというより,現世において生きているイエスです.つまり,「あなた」が全てだと言っています.
ユダはイエスに向かってはっきり言い切ります.
「あなたが此の世にいなくなったら,私もすぐに死にます。生きていることが出来ません。」
僕の好きな歌で,藤井風さんの「死ぬのがいいわ」という魅力的な楽曲があります.ユダのエモい価値観にぴったりの曲だなと思います.
僕が「駈込み訴え」を読みながら最終的にモヤモヤが残っている「引っかかる点」とは,一言で言えばこのユダの価値観の力強さです.
ユダという人間には嫉妬もあります.執着もあります.認められたい卑屈さもたっぷりある.会計係として現実的にイエスと弟子たちを支えている自負心もあるでしょう.承認欲求も依存心もたっぷり持っています.
でも究極的には,今ここのイエス=「あなた」にフォーカスした愛情がユダのアイデンティティなんだなと思います.それは「あの人に捧げた一すじなる愛情」です.「世間」的な理解さえも振り切っているのです.
次のようなユダの語りに,生き生きとした言葉の美しさを僕は感じます.
モヤモヤをもう一歩言語化しましょう.
ユダの生き様はエゴイスティックです.不幸な意識でもあり,破滅的な欲望でもある.でもその破滅の運命全体を底の底から全肯定する時の,迷いの無さ,主体性,意志の行使には舌を巻きます.
「私は私の生き方を生き抜く。身震いするほどに固く決意しました。」
イエスとユダの価値観,世界観は全く噛み合っていない.「愛」という言葉だけは同じだけれども,その言葉を使う世界観が違う.多元的に決定的に違っていると僕は感じます.
モヤモヤをまだ追いかけます.
多元的に決定的に違っている,と感じると同時に,お互いにとって必要な存在だとも思うのです.相互補完的というか,相互作用的というか…
具体的にはイエスのこういう言動が引っ掛かります.
この言動に僕は,なんか奥歯に物が挟まったような言い方だなと感じます.
不自然なくらい自分が「師」であることを「おまえたち」(弟子)に言い聞かせている.「師」は弟子より優れているのだから,よく尊重をして「模範」的なこの行動も信じて重んじなさい,と言っている.
僕の解釈だと,自分は師として偉いのだと思わせたいのではなくて,弟子たちに,お互いに仲好く足を洗い合うような,隣人愛を心から大切に思わせたいから,自分の権威をあえて強調して使っているように見えます.
その上で「おまえたちのうちの、一人が、私を売る」と予言するのです.
この「一人」とはユダのことを言っています.この一連の流れをどう考えたらいいのか,簡単ではないなと思います.
ただ,自分が直感的に思うことを言葉にしてみます.
イエスが「おまえたちのうちの、一人が、私を売る」という予言的な言い回しをするのは,この師と弟子の言語空間においては,その一人に対して「私を売れ」と命令しているようなものだと感じます.
イエスの言動に僕が感じるモヤモヤは,言ってみれば「両義性」です.一つの言葉使いのうちに,正反対の二つの意味を持たせるような振る舞いです.
弟子たちに,自分が「主」であり「師」であると強調したのも,逆を言えば,強調することで命令しないと弟子たちは隣人愛を実行することがないからです.言い換えるとイエスは,どうかお願いだから私を師として信じるならば,私の死後において「隣人愛」を実行するような人間になってくれ,と切望しているのではないかと思います.
そしてそのように切望するくらい,それが困難だろうと予想して絶望しているのです.弟子の生き様や信仰に対して,イエスは全くの無力感を感じているのではないかなと思いました.そこにものすごくネガティブな認識を感じてしまいます.かつ,そう思うのも当然だとも思うのです.
イエスは,弟子であろうとも,自分の信仰を全く理解しないと認識している.その代表がユダです.ユダの「純粋の愛の貪慾」の主体的な力強さについては先に書きましたが,苛烈なものです.彼にとっては「どんな刑罰も、どんな地獄の業火も問題でない」のですから,まさにイエスにとっての信仰の絶対性と,真っ向から対立するような絶対性をユダも生きているように見えます.
イエスも覚悟を決めなければならない.弟子たちを慈しみながら,それでも自分の信仰の価値を最大限表現するための道に入っているのですから,本気の行動を選ぶ必要があります.
震えちゃうシーンですね.僕にはめちゃくちゃ生々しい場面が目に浮かびます.イエスとユダの世界が,その決定的にズレた二つの世界が,「言葉」だけではなく「身体」において交わっている場面です.武士道だったら切腹者が介錯を依頼しているのと同じです.いわば刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)です.
見えない言葉の意味を読み取るならば,美しい言葉と行為の両義性が爆発しているのが感じられるでしょう.
イエスが一つまみのパンをユダに与えるというのは,自分の信仰の最も真髄としてある「心の糧」や絶対的な「義」の価値を血肉のように分け与えることです.それと同時に,弟子たちの前で,本人に向けて「お前が私を売るのだ」と断じているし,それを為せと命令している.
「生れて来なかったほうが、よかった」というのは,師を裏切るという罪の深さがあまりにも悪業が深いため,生きている価値もないという全否定を表しています.一方で,ユダという人間が本質的に他の誰よりもイエスの信仰の価値を理解するポテンシャルを持っていること.それゆえに選んだ愛弟子が師の暗示的な命によって,自らの命よりも大切な師を裏切らなければならない「不仕合せ」に共感しているように見えます.
イエスのイエスらしさは,この両義性を全て認識して生きていることです.それに対して,ユダのユダらしさは,この見えない両義性を全く理解できないまま,見えない価値ある存在の気配だけ直観しているという在り方だなと思います.
「永遠に解け合う事の無い宿命が、私とあいつとの間に在る」と自ら言及しながら,その宿命の違いの意味を理解していないという絶妙な言葉使いです.あれほどまでに,悲哀に満ちたイエスの与えるパンについても,「犬か猫に与えるように」と理解するユダの自己完結性が鮮やかに表れています.
モヤモヤしていた部分に少し手が届きそうです.
イエスの言動の両義性は,イエスの救世主性とも通じているように思えます.つまり存在の価値が逆説的なんだなと思います.
ユダのように,全ての人々が寂しさを抱えて,世間的,現世的な価値観に必死で縋って,何とか幸福を所有しようとしている.そのこと自体が,絶望的に不幸な意識の中に牢獄のように閉じさせる.誰もそこから抜け出ることはない.
だからこそイエスの行動は奇跡のような価値となり,見えない価値を在り方を,意識の遠い外枠の境で直観させる.人々がもし簡単に自由になれるのなら,そもそもイエスが救うべき人々もいないのだなと感じました.
その人間的なものの存在感を描くのは,やはり文学作品ならではだなと改めて感じました.文学はむしろユダ的なものに,深く寄り添うようです.
4回にわたって読書ノートを書きながら考えて,僕は本当に太宰治の作品の素晴らしさを感じました.ちょっと信じられないくらいです.太宰治にとって神とは何か,キリスト教的信仰とは何かの問いをきっかけに考察しましたが,思いもしないところへ至って,少し震えてますw
最後に,ユダの語りの中で最も美しいと感じたフレーズを引用します.
「私は子供のような好奇心でもって、小鳥の正体を一目見たいと思いました。」
ユダにとっての「小鳥」の声とは,理解できないゆえに,心底知りたいと切望していたイエスという他者の影です.もし自我という牢獄を忘れられたなら,神秘の声の正体が聴こえたのかも知れません.
今回も「駈込み訴え」という素晴らしい作品と,太宰治に感謝を.
読書会で一緒に読んでくださった皆さまにも感謝をいたします.