#012-2 「駈込み訴え」/太宰治 読書ノート②〜聖書は文学作品に似ている!(いや逆か?)

Lectioのゆるい純文学・古典・教養書の読書会にて先日,太宰治の「駈込み訴え」を読みました.読書ノートとして感想や考えたことを備忘録的に書きたいと思います.

前回①の記事では,「駈込み訴え」を読む前に聖書について予習をしたこと.一神教の神との対話と,日本的な世間の空気を読む文化との根本的な違いについての発見を書きました.

他にも聖書の予習のために読んだ本があります.
『NHK 100分 de 名著 新約聖書 福音書 2023年 4月』で,講師の若松英輔さんによる解説がめちゃくちゃ分かりやすく,かつ深くて学びになりました.

こちらの本では新約聖書(複数の福音書によって構成されている)の内容について分かりやすく解説されていました.

さらに豊かで文学的な解釈が若松英輔さんによってなされていて,信仰の有無とは別に味わい深く読ませる内容でした.解説書としてめちゃくちゃオススメいたします!

今回は太宰治の短編小説「駈込み訴え」について読むのがあくまで第一の目的です.作品の中には登場人物としてのイエスやユダがいます.作品の中でのそれぞれの人物像や心情を読み解くことが第一ですので,小説作品の外の新約聖書の解説書やキリスト教文化の中での神の子イエスの解釈をそのまま使うのは注意しなければならないなとも思いました.

ただ,そこは明確に線引きできるものではないし,素人としては面白く読むことが一番なのですが,あくまで文学好きな自分としては主が作品で,参考書は客という位置づけで読みたいなとは思いました.

細かい注意点はさておいても,全くと言っていいほどキリスト教の素人である自分にとっては,「駈込み訴え」を深く読むための基本情報をしっかり予習することができました.

例えば,新約聖書の主な内容であるイエスの物語の概要がわかりました.これくらいは全然知らないよりは知っていた方が作品の理解も断然違ってきます.

皆さまはイエスがどういうことをした人か知っていますか?
以下が僕がざっと理解した新約聖書の概略です.(なにぶん素人なので細部が違っていたらすみません)

新約聖書の概略メモ

救世主として生まれたというイエス
30歳くらいから布教活動
弟子12名
イスラエルの王,ダビデの御子としてエルサレムにやってくる,みたいな預言あり
イエスの布教のポイント
・最後の審判で天国へ行くように生きろ
・父なる神を信じろ
・隣人を愛するように
・弱きものを助けろ
・形だけの法より本質を求めろ(学者のパリサイ人批判,ユダヤ教の権威と対立)
司祭長や役人(ローマ総督)に処罰される見通し
死して復活する見通しがある
ユダに裏切られる
他の弟子にも裏切られる
十字架にかけられて死ぬ
ユダは後悔して自殺する
イエスが復活する

このような概略のうち,作品内の出来事は「エルサレムにやってくる」の後にユダがイエスの居場所を役人に教えることで裏切る場面が描かれていることが分かりました.

もしこれから「駈込み訴え」を読まれる方は,このざっくりとした新約聖書の流れをイメージするとイエスのやっていることの意味が把握しやすくなると思います.

もう少し付け加えると,この新約聖書の内容は本当に色々な他の文学作品や絵画や映画など,実に様々な文化的表現の中に引用されていますね.なのでこの内容を知らないと,特に日本の文化圏に住む僕らにとっては「?」…という意味の空白が生じますね.あれって本当にもったい無いんだなと実感しました.

もっと言うと,旧約聖書のモーセのこととか,新約聖書の中でもヨハネの黙示録とか,その辺りも様々な映画とか漫画の文脈で引用されたり,なぞらえたりしていますね.今更ながらこの文化的な振る舞いってすごいなって思いました.

これは素人の僕の想像に過ぎませんが,日本人に馴染みのあるアニメとかで例えてみると,これってマジですごいことじゃね?と思うのです.

西洋の文化にとっての聖書の世界って,もしかしたら絶対的な存在感を持つ有名なシリーズもののコンテンツの「オリジナル作品」としてあって,それを元に無数の続編とか外伝とかスピンオフ作品とかが生まれているような感じなのかなと.関連グッツ(アート)とか作ったり,作品に登場した場所の「聖地巡礼」とかしてますが,あんなふうに現実世界と物語世界(神話)とが完全につながりながら強力な意味を感じて日々生きている,ということなのではないかと思いました.

全然見当違いなこと言っているのかも知れませんが,もしそうならスゴイことでは?と思ってしまいました.一神教の神は天地創造から始まって,最後の審判までカバーしているようなので,その世界観に包まれている感じがハンパないなと思ってしまいました.ちょっと妄想が過ぎるといけないので,このくらいにしておきますww


聖書は文学作品に似ている!(いや逆か?)

『NHK 100分 de 名著 新約聖書 福音書 2023年 4月』の若松さんの解説は全てが参考になるのですが,特に腑に落ちたのが第2回「魂の糧としてのコトバ」の章の内容でした.

若松さんは,言葉について「言葉」と「コトバ」の2つに分けて,説明してくださっています.このことは聖書を読むにおいても,文学作品を読むにおいても大事な共通の言語感覚だと思いました.

「言葉」が言語的な意味であるのに対して、「コトバ」は、非言語的な意味の顕われを指します。
ここで「非言語的」というのは、言語ではないという意味ではなく、言葉にとどまらない、というほどの語感で理解してください。すなわち「コトバ」は「言葉」を包み込んでいるのです。

『NHK 100分 de 名著 新約聖書 福音書 2023年 4月』若松英輔 著 より

箇条書きにすると2つはこう分けられます.

「言葉」=言語的な意味
「コトバ」=非言語的な意味

これだけではどういうことか分かりませんので,若松さんは「福音書」のイエスと弟子の会話を例に出します.

その間に、弟子たちはイエスに、「ラビ、召し上がってください」と願うと、イエスは、「わたしにはあなた方の知らない食べ物がある」と仰せになった。そこで、弟子たちは、「まさか、誰かが食べ物を持って来たわけではあるまい」と互いに言い合った。
(「ヨハネによる福音書」4・31-33)

『NHK 100分 de 名著 新約聖書 福音書 2023年 4月』若松英輔 著 より

イエスが言う「あなた方の知らない食べ物」とは一体何でしょうか.
若松さんによると,それは実際の「食べ物」ではなく,心の,魂の糧としてのコトバなのではないかとおっしゃいます.

僕らが人生において悲しい時,苦しい時に,必死に心の糧となるようなコトバを求める.その時の「コトバ」です.とってもよく分かります.僕もそういうつもりで文学作品を読んだり,好きな歌の歌詞を味わいます.

具体的な実際の「食べ物」は,例えばパンだったりします.しっかり食べると炭水化物だったりミネラルだったりが肉体を作り活動するためのエネルギーを生みます.それは物理的,動物的に生存するレイヤーと言えるかもしれません.

でも人間はそれだけで生きることは出来ません.精神が生きる方向性を見出すことができなければ,起き上がることすら出来ません.そう言う時,心の栄養として欲するのは具体的なパンではなく,心の糧としての「コトバ」なのだというのは,完全に同意します.人間には精神的に生存するレイヤーもあるはずです.

僕なりの理解では,2つの言葉はこう分かれると言えそうです.

「言葉」= 言語的な意味 = 実体的な物質的存在(見えるもの)
「コトバ」= 非言語的な意味 = 精神的・象徴的な存在(見えないもの)

さらに若松さんは,聖書に出てくる「パン」が魂の糧であるコトバを意味していることが,はっきりと見える箇所として以下の部分を引用しています.

生きておられる父が
わたしをお遣わしになって、
わたしが父によって生きているように、
わたしを食べる人もわたしによって生きる。
これは天から降ってきたパンである。
先祖は食べたが、それでも死んでしまったようなものではない。
このパンを食べる者は、永遠に生きる。

(「ヨハネによる福音書」6・57-58)

『NHK 100分 de 名著 新約聖書 福音書 2023年 4月』若松英輔 著 より

素人の僕からみても,素晴らしい詩的な文章だと思いました.
素直に読むと,イエスが,自分や自分が信じている神様という存在の価値というものが,「魂の糧であるコトバ」なのだという意味をパンという隠喩(メタファー)で表現しているのだなと思いました.

そして「このパンを食べる者は、永遠に生きる。」という文句を読むと,素人ながらにイエスが死ぬけれども復活するとか,キリスト教を信じる者が永遠の生を生きると言われることの意味がここにあるのだろうなと想像がつくようになりました.

逆を言えば,「パン」を「食べる」とか,「生きる」や「死ぬ」などの言葉を,さっきの2つに分けたリストのうち「実体的な物質的存在(見えるもの)」として読むと単なる非合理な言説として表れてしまい,「何を言っているのか?」と困惑するだけで終わってしまう可能性があります.

あるいは,読む人がさらに無理やり理解しようとすると,本当に具体的な物質としての「パン」が何故か「天」=空中から降ってきて,それを「先祖」が食べた?…というように,そのままを象徴的な意味ではなく事実そのものとして信じなければならないと思いながら読むかも知れない.それはそれでマズイ問題が生じるようにな気もしました.

聖書の解釈は歴史的にあらゆる面で議論されていると思うので,素人の僕が心配することではないと思います.ここで僕が感じたのは,文学作品を読むときの難しさと共通している点があるな,と思ったからです.

文学作品も聖書と同じように,その作風によっては隠喩(メタファー)を多用します.文学作品は言語による芸術なので,むしろ象徴的な表現を駆使して,意味の多様性や立体性を実現して,読み手の心に深い感動を現象させようという努力があります.

でもそれは諸刃の剣で,隠喩(メタファー)を汲み取りきれないと,作品の深みも引き出すことができない.聖書と同じで,「何を言っているのか?」と首を傾げるだけで終了してしまうこともあるよな,と思いました.

まあでも,そこが読むということの面白さかなとも思います.
大自然を味わって感動したいと思っても,庭を愛でるレベルから,里山を歩くレベル,深い森に分け入ったり,生命の危険も感じながら登山をするレベルまで様々です.読書も同じように,自分が習熟していく過程自体を焦らず楽しむのが最良だなと思いました.背伸びをしてもしょうがない.


イエスの「コトバ」と,ユダの「言葉」

さて,ここまでの若松英輔さんの言葉(「言葉」と「コトバ」の違い)についての解説が爆発的な読みのアシストをもたらす場面があります.例えば作中のユダが語る以下の部分です.僕はあえて引用文のうち一部を太字で印をつけましたので,読んでみてください.

馬鹿な奴らだ。その日のパンにも困っていて、私がやりくりしてあげないことには、みんな飢え死してしまうだけじゃないのか。私はあの人に説教させ、群集からこっそり賽銭を巻き上げ、また、村の物持ちから供物を取り立て、宿舎の世話から日常衣食の購求まで、煩をいとわず、してあげていたのに、あの人はもとより弟子の馬鹿どもまで、私に一言のお礼も言わない。お礼を言わぬどころか、あの人は、私のこんな隠れた日々の苦労をも知らぬ振りして、いつでも大変な贅沢を言い、五つのパンと魚が二つ在るきりの時でさえ、目前の大群集みなに食物を与えよ、などと無理難題を言いつけなさって、私は陰で実に苦しいやり繰りをして、どうやら、その命じられた食いものを、まあ、買い調えることが出来るのです。謂わば、私はあの人の奇蹟の手伝いを、危い手品の助手を、これまで幾度となく勤めて来たのだ。

「駈込み訴え」/太宰治 より

このユダの語りの元になっている同じエピソードが聖書にもあるようです(「マルコによる福音書」).若松さんはその部分について以下のように解説しています.

パンが五つと魚が二匹しかないはずなのに、それを五千人で食べて、残りを集めたら十二の籠いっぱいになったと書かれています。文字通りのことが実際に起こったと信じるのは難しいと思います。しかし、ここでの「パン」や「魚」と記されているものは、「たましい」の糧であるコトバの比喩だとしたらどうでしょう。「たましい」に渇きを覚えた五千人の人たちをイエスのコトバが癒やす、ということは十分にあり得ることなのではないでしょうか。

『NHK 100分 de 名著 新約聖書 福音書 2023年 4月』若松英輔 著 より

若松さんの解説にあるような聖書解釈,「パン」を魂の糧の象徴として解釈する世界観と,小説内で語るユダのように「その日のパン」「命じられた食いものを、まあ、買い調えること」として捉える世界観とが,小説の中で対立しているのだと感じました.
それは正確には「対立」ですらないのかも知れない.その時,作品の中のイエスとユダは同じ言葉を使いながら違うゲームをプレイしているようなものなのではないでしょうか.

実体的な言葉を使うユダの次元の世界と,象徴的な言葉を使うイエスの次元の世界が,同じ言葉という「点」だけを共有しているように僕には見えます.ここには対立ですらない世界の在り方が描かれています.

このような視点に注意深く「駈込み訴え」を読み進めると,聖書を信仰することと別の角度から,信仰とは何かを考えさせるような作品だなと思えてきます.あまりにも文学的な表現と言えるのかも知れません.「駈込み訴え」という小説世界は僕らをどこに連れていくのでしょうか.

続きはまた!!








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