#020 「詩を書く少年」/三島由紀夫 読書ノート〜
2023年9月のLectioの純文学読書会にて、三島由紀夫の『詩を書く少年』という短編小説を読みました。
今回、自分が読んだ時の感想について書いておきたいと思います。
読んでから感想を書くまで大分時間がかかったなと思います。忙しかったのもありますが、色々考えることが出てきて中々言葉にするのが難しかった…。
この前月には、同じく三島由紀夫の『海と夕焼』を読みました。そこでは、信仰や奇跡の待望とその現実による挫折が描かれていました。作品の語りはその挫折を「不思議」と表現していて、その転倒した感性が三島らしいなと思いましたね。
この『詩を書く少年』を読むときに「詩」とは何かを自分なりに考えました。
以前に、『今を生きるための現代詩』(渡邊十絲子 著)という本を読んだ時に、詩にも二つのタイプがあるという分類を学んで、それが今回大変意味のある補助線となりました。
1つ目:書き手の体験,「生の実感」を再現する詩
2つ目:「生の実感」の再現ではない詩
この『詩を書く少年』に登場する主人公の少年にとっての「詩」とは、明らかに後者のタイプの詩だなと思いました。彼にとっての詩とは「生の実感」などではないのです。逆に「生の実感」ではない言葉だけの「詩」を生み出す能力において天才を発揮していたのが少年の在り方なんだなと思いました。
要するに、少年は大量の詩を非常に楽に生み出し続けることができるんですね。その秘訣は大量の辞書を読むことにある。「生の実感」を内省して言葉を探すタイプではないんです。
「微妙な嘘のつき方」を覚えた、とありますが。どういうことか。
思うにそれは、「生の実感」として感じたことのない感情も、言葉だけを組み合わせて、巧みに「それっぽく」表現する技術を磨くことだと僕は思います。それは明確に以下のように説明されています。
この引用箇所を読んで、その意味を深く理解するにつれ、僕は三島由紀夫という人の文学の尻尾を見つけたような気持ちになりました。
少年の詩とは何かというと、自分が経験したことの無い感情も、辞書で調べてストックしている感情に関連した語句を、適当にパズルのように組み合わせているうちに、非常に意味深くそれっぽい詩を作ることができるというわけです。
これって何かに似てません?
僕は、「あ、ChatGPTのハルシネーションに似ているんだ!」と思いました。
「ハルシネーション」をWEBで調べると、こんな解説が出てきます。
少年の生み出す「詩」って、人工知能の出力と似ているって思いました。
例えば、僕は試みに、ChatGPTに以下の命令を指示しました。
(『詩を書く少年』の冒頭のフレーズから画像生成をやってみました。)
次の文章から写真風の画像を生成してください。
少年は「一週間詩集」というものを編んだ。
ノートの表紙を楕円形に切り抜いて、第一頁の、poesiesという字が見えるようにしてある。
その下には今度は英語で、12th→18th.MAY 1940と書いてある。
こんな画像が生成されました。中々味がある良い画像ですね。
ChatGPT自身に質問してみました。
「あなたはこの画像についてどういう印象を受けますか?」
ChatGPT:
この画像を見ると、時代の息吹を感じますね。1940年代のノートは、古さと同時に大切に扱われてきたという印象を受けます。楕円形に切り抜かれた表紙からのぞく「poesies」という文字は、詩的な雰囲気を醸し出しています。手書きの日付が添えられていることで、そのノートが特別な時期に使われたことを物語っています。全体的に、文学的な感性と歴史的な背景を感じさせる画像です。
このように、ChatGPTと話すと非常にスムーズに言葉を並べてくれます。ですが、彼は彼自身が生成した画像を実際に、僕たちのように見ることすらできないわけです。(実感しないわけです)
しかし、彼が言っていることは、読み手からすれば、確かにそうだよねと感じさせるに十分です。彼は巧みな言葉の使い手と言えるでしょう。でもそこに「生の実感」は無いんです。
ChatGPTと『詩を書く少年』の少年にとっての「詩」を並べて考えるとき、僕はすごく深い言葉の謎について、答えのない問いを投げかけてしまいます。
言葉って何だろう。
言葉って、本当に「生の実感」を表現できているのだろうか。
言葉を「それっぽく」並べただけの文章に対して、共感的に感動する時、僕らは一体何に感動しているのか。何を感じとっているのだろうか。
もっと突き詰めるとこういう疑問です。
「僕らは言葉によって現実そのものに関わることが出来ているのだろうか?」
僕の独断ですが、三島由紀夫の文学の本質にも関わってるテーマだと思います。
作品が収められた『花ざかりの森・憂国』の三島自身による「解説」を引用してみましょう。
ここで「彼が詩人ではなかった」というのは、「生の実感」とつながった言葉遣いをしていなかったという意味だと思います。あくまで「生の実感」と共に、自らの人生の痛みや苦悩を言葉にするのが詩人というわけです。
少年の先輩である「R」さんが、少年に恋の打ち明け話をするシーンがあります。
「きっといい詩ができるでしょう」という少年に対して、「詩どころじゃないんだよ」と答え、「君にはまだわからないんだよ」と率直に言われてしまいます。
少年はこの一言に自尊心を傷つけられることになります。この出来事が少年が幸福の中で浸っていた詩の世界が、現実世界の壁によって初めて受けた「蹉跌」となったんだと思います。
ちなみに、三島由紀夫の「解説」で使っているこの「蹉跌」(さてつ)という言葉がとても印象に残りました。「蹉跌」とは、「物事がうまく進まず、しくじること。「挫折」という意味ですが、三島は最期の割腹事件を起こす前に、「サンデー毎日」編集部の徳岡孝夫氏に宛てた手紙においても、この「蹉跌」という言葉を使っています。
すごく細かい話ですが、三島由紀夫の感性にとって、頭の中の計画への執着は尋常ではないものがあるなと思います。少年の「詩」も、現実によって挫折するのが耐えられない屈辱なわけですし、『海と夕焼』の信仰や奇跡待望も、現実の海が分かれない方が「不思議」な訳です。
このあべこべに転倒した感性こそ、三島由紀夫らしい独特な文学的天才性だと思います。
そして、この作品が収蔵されている『花ざかりの森・憂国』という書籍のあり方も同様です。三島由紀夫自身が自ら短編小説を選んで並べ、おまけにその「解説」においても誰よりも雄弁に自らの文学的テーマの解釈をガイドするわけです。
言ってみれば、私が表現した「美」の通りに、読者も「美」を感じてもらわないと困るという感じです。この過剰な執着が、三島由紀夫の文学の個性なんだと思いますし、もっと言えば、完璧なる自己完結の世界です。
そのあり方の先で、「まだ蓋をあけたことのない地獄」であり、「二度と幸福の訪れない領域」を、三島由紀夫はどこかで生きることになったのだと思います。
例えるなら、出口のない観念の牢獄みたいな苦しみです。現実に出会って「蹉跌」を経験したくとも、同時に自分の頭の回転の方が優位に働いて、「言葉」(観念)が過剰に現実の先回りをします。どうしたって現実に出会うことが出来ない。
三島由紀夫の「美」の理想が、行動とか切腹とか、「知行合一」とかに向かって激しくにじり寄っていく欲望は、現実に向かって出口を見出したいという焦燥感のようにも感じられます。
そこまで考えると、三島由紀夫はこの「出口のない観念の牢獄」の苦しみの味を孤独に味わうことによって、初めて、紛れもなく「生の実感」を生きる芸術家・文学者となったに違いありません。
この作品の最後に象徴的に三島由紀夫が夢見る「美」の形を表したフレーズがあります。
皆様は、このフレーズを読んで何を感じられますでしょうか。
僕は、「詩」の恍惚でもない、言葉を必要としない、シンプルな現実の「美」を生きている瞬間だと感じます。
このような美と一緒になって人生を終えること。それが三島由紀夫の夢になったのではないかと、今回、思いましたねえ。
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