見出し画像

人は我で、空しくなる

 人は何故、思い悩み、鬱屈とし、空しくなっていくのでしょうか。

 我執に囚われているからだ、というのがお釈迦様の応えです。デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールも、「自己自身であろうと欲することが絶望である」と言っています。

 その我執の囚われには、五つあります。貪欲、怒り、慢心・承認欲求・疑念・怠惰です。これらの場面は、みな自分の思い通りにしたいという欲求から現れて来ています。

 人は往々にして「すべては自分の思い通りなること」を願い、また「自分の力では何をやっても思い通りにならない」とやる前から諦める傾向があります。両方とも共に「変化」に対して、自分の思い通りにしようと欲することから現れて来ているものです。

 この世界は無常です。常なるものはない、変化生滅の世界です。換言すれば、絶え間ない新陳代謝の運動です。この無常さは、私たちの意図を越えた力として働いているのです。

 私たち人間の科学は生命自然を説明しようとします。しかし、生命自然は、往々にして、その科学の説明の限界を露わにします。例えば、ハイゼンベルクの「観察問題」は、「観察すること自体が、その対象を変容させてしまい、その対象自体を知ることはできない」ことを指摘しました。カントの「物自体は知れない。知れるのは、現象だけである」というのも、この事を意味します。確かに、私たちは、生命自然の現象を観察することはできます。しかし、未だ生命自然それ自身を知っているとは言えないのです。

 私たちは、生命自然の世界(私たち自身も生命自然です)を経験しているだけで、十分に知っているわけではなのです。どうして、知ってもいないことを、自分の思い通りにすることができるのでしょうか。

 仏教では、「期待や希望や願望は捨てなさい」と説いています。しかし、この真意は、ご都合主義的な願望を捨てなさいということです。

 仏教では、「生きることは苦 dukkhaである」と言います。苦 dukkha とは、苦しみ、不安、空しさなどの意味があります。つまり、生きていること自体が、不可確定なことなのです。生きていることが絶え間ない変化生滅の無常なのです。

 この変化生滅の無常に抵抗するように、ご都合主義に考えても、それは単なる思い込みでしかありません。思い込みは幻想です。自身の都合の良い幻想に囚われているだけなのです。それはまるで、空に向かって刀を振り回しているようなもので、このような姿ほど空しい姿はないでしょう。

 変化生滅に対して、取り返しのつかないことになるかもしれないと、無暗に我執する必要はないのです。焦ってやっても五分とも違いません。追い越したところで、さほど変わりません。取り越し苦労が多くなるだけです。

 我執を捨て断ち、離れ、静謐さへ至ることが、悟りです。しかし、悟りは誰でも生きながらにして経験できることですし、経験していることでもあるのです。

 本当に楽しい時や、没頭してフロー状態にあるとき、あなたは自分の事など全く気にしていないはずです。実際に、理想の相手とは、自分のことなど気にもせずに、一緒にいて、安らげる相手のことではないでしょうか。ぐっすりと眠れる相手ほど、かけがえのない人はいないのです。

 穏やかな気持ちでいるとき、清々しい気分でいるとき、人は忘我の状態にあります。ある意味、自分の事を考えなくてはならないこと自体が、本当は不幸なことなのかもしれません。

 お釈迦様は、「空しく過ごしてはならない」と言っています。それは我執に囚われながら日々を過ごしてはならない、ということです。
人はすぐに自分を正当化しようとします。他者に反発して、他者と比較して、すぐに自分を正当化しようとするのです。そうして自分に執着していくのです。どんな悪人でも自分は悪くないと言うのです。自己正当化は黄色信号です。よくよく考えてみなくてはなりません。

 何でもかんでも自分の思い通りにしようとしたり、何も思い通りにならないからといって諦めたりしても空しいだけです。それは余りにも結果や現状に囚われすぎているのです。

 自分の囚人になってはいけません。自分を空しくしてはいけません。空しさのない生き方を見つけるのです。そしてそれは自分で見つけていくしかありません。

 人が伝えられるのは、考え方だけです。How to は無意味です。他人にHow to を求めてはいけません。なぜなら、同じ言葉でも、人が違えば、その意味も異なっていくからです。人はみな経験が違うのです。感覚や感情の抱き方が異なるのです。
 How to は、自分で見つけていくなかで、他の人の意見を参照することぐらいしかできません。自分の経験に関連づけて、租借していくのです。果物屋さんに行って、そこにある果物を全部買う人はいません。自分が食べたいものを買っていくのです。

 誰かの人生を生きることはできないのです。これを肝に免じなくてはいけません。今の自分を基軸にいろいろ失敗して、一つ一つ積み重ねていくしかないのです。自分自身の手で試みることだけが、すべてです。

 我執の囚人になってはいけません。貪欲、怒り、慢心・承認欲求、疑念、怠惰のまどろみに囚われてはならないのです。心の空しさは、我執から生じているのです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?