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先進中世イスラム社会の保存食とその物語

中世イスラム社会において、現代の「インスタント食品」に相当するような「短時間で調理できる保存食」「旅先でも素早く食べられる携行食」として利用されたものはいくつか知られています。もちろん現在のレトルト食品やフリーズドライのような高度な加工技術は存在しませんでしたが、乾燥や塩蔵、発酵などの技術を用いて保存性を高めつつ、手早く調理ができる形態の食品が多く発達しました。以下に代表的な例を挙げます。

1. 乾燥ヨーグルト(カシュク/キシュク:kashk, kishk)
• 概要
中東・中央アジア全域で古くから食されていた、ヨーグルトや発酵乳を乾燥させた保存食です。アラビア語圏では「カシュク (kashk)」「キシュク (kishk)」、ペルシア語では「カーシュク」、トルコ語では「ケシュク (keşk)」など、地域によって呼称や製法が少しずつ異なります。
• 特徴
• ヨーグルトを布袋などで水分を切り、さらに天日乾燥させて固形や粉末状にしたもの。
• 水やスープに溶かせばすぐに元に近い状態になり、味付けやコク付けに使えるため「即席調味料」のような役割を果たしました。
• 移動の多い遊牧民や隊商、軍勢などにとって、軽量で長期保存が利く重要な栄養源でした。
• 調理例
• スープやシチューに加えて酸味を与え、旨味を加える。
• 乾燥状態のまま砕き、塩や香辛料と混ぜて食べる場合もある。

2. 発酵穀物の乾燥食品(タルハーナ:tarḥāna, tarkhāna など)
• 概要
地域によって呼び名や材料は多少違いますが、小麦粉や粗挽き小麦(ブルグル)をヨーグルトや発酵乳、野菜などと混ぜ、発酵させてから乾燥させたものが存在しました。トルコの「タルハーナスープ」、イランの「トルシー・キャシュク」などが類縁とされます。
• 特徴
• 粉末または半固形の乾燥物で、保存性が高い。
• 水や湯に溶かしながら煮るだけで、スープや粥のような栄養価の高い料理が短時間で作れます。
• 香味野菜やハーブを混ぜ込んでいる場合もあり、風味が豊か。

3. 乾燥肉・塩漬け肉(パスティルマ/バスティルマ:pastirma など)
• 概要
肉を塩漬け・乾燥・香辛料塗布などの工程を経て保存性を高めた食品。アナトリアやイラン、アラビア半島など各地で製法にバリエーションがあります。
• 特徴
• 代表的なのはトルコ語で「パスティルマ (pastırma)」と呼ばれる牛肉の塩漬け乾燥品。赤唐辛子やクミンなどの香辛料ペーストを表面に塗り、長期間保存できるようにしたものです。
• 薄く切ってそのまま食べることもでき、加熱調理する場合も短時間で済む。
• 中世イスラム世界では、隊商や軍勢の携行食としてはもちろん、都市部でも塩漬け肉や干し肉は保存が利く食材として重宝されました。

4. 干し魚・塩漬け魚
• 概要
地域によっては魚を塩漬けにして干すことが行われており、乾燥ヨーグルトや乾パン等と同様、長期保存用・旅用の食料として利用されました。
• 特徴
• 水やスープで戻して加熱すれば食べられるため、手間が比較的少なく栄養価も高い。
• 湿度の低い地域や沿岸部などで製法に差異があり、独自の名称や味付けがなされていました。

5. 乾燥パン・硬パン
• 概要
パンが主食として非常に重要だったイスラム圏では、平焼きパン(フラットブレッド)を乾燥させ、硬い状態で保存しておくことも一般的でした。
• 特徴
• 水やスープに浸す(もしくは砕く)ことで手早く食べられる。
• 「クルサ (qursa)」「ラガーフ (raghāf)」など、地域ごとに平パンの名称や製法も多彩。
• 隊商の旅では日持ちする乾パンを大量に携行し、塩漬け肉や乾燥ヨーグルトと組み合わせて食べた。

6. 圧縮デーツ(ナツメヤシ製品)
• 概要
イスラム世界、とりわけアラビア半島やイラク、北アフリカの乾燥地帯では、デーツ(ナツメヤシの実)が重要なカロリー源でした。これをすりつぶし圧縮したり練り合わせたりして「塊状」にしたものも携行食として使われました。
• 特徴
• 加熱せずそのまま食べてもよく、栄養価や糖分が高いためエネルギー補給に向く。
• 軽い甘みを付与する調味料的な役割も果たす。
• 商隊や巡礼者にとって、保存性の高い食物かつ即時に食べられる「手軽なおやつ」的存在だった。

7. 即席性と中世イスラム社会の食文化
• 中世イスラム社会は、交易路が広大に張り巡らされ、隊商貿易や巡礼(ハッジ)などで長距離の移動が頻繁に行われました。そのため、**「短時間で調理できる」「腐敗しにくい」**食品の需要は非常に高かったと考えられます。
• 乾燥・発酵・塩漬けといった技法を駆使した保存食は、都市生活においても食卓の基礎となり、日常的に用いられる調味料(乾燥ヨーグルトや発酵穀物など)へと発展しました。
• 当時の料理書(例:10世紀のアッバース朝時代に編纂された『キターブ・アッ=タビーخ』Kitāb al-Ṭabīkh など)には、乾燥させた食材を短時間で煮込んで作るスープやシチューのレシピが複数存在します。これらは現代の視点から見れば「インスタントに近い」形態とも捉えられます。

参考文献・関連情報
• Nawal Nasrallah (Translator), Annals of the Caliphs’ Kitchens: Ibn Sayyār al-Warrāq’s Tenth-Century Baghdadi Cookbook, Brill, 2007.
• Charles Perry, “The Description of Familiar Foods in the Medieval Arab Cookbooks,” in Medieval Arab Cookery, Prospect Books, 2000.
• Harlan Walker (ed.), Oxford Symposium on Food and Cookery: Milk - Beyond the Dairy, Oxford Symposium, 2000(発酵乳製品の歴史が含まれる)
• 佐藤健太郎「イスラム世界の食文化と隊商貿易」『東洋学術研究』など(日本語で中世イスラムの食文化を概観する文献)

まとめ

中世イスラム社会では、現代の「即席食品」と呼べるほど手軽な加工食品は存在しなかったものの、乾燥・塩漬け・発酵などを駆使した保存食が非常に発達していました。これらは「お湯や水で戻すだけで、あるいは短時間の煮込みだけで食べられる」ため、旅人や隊商、軍勢などの生活を支えると同時に、都市部でも調理を簡略化する重要な食材として重宝されていたのです。

保存食と調理の物語

黄昏が砂の大地に溶けるように沈むと、昼間の酷熱が嘘のように急激な冷え込みが訪れる。冴え渡る空には無数の星々がこぼれ落ちそうに瞬き、夜風がテントの布をはためかせる。その音は、まるで遠い海のさざ波のように穏やかで、しかし底冷えするような静寂を伴っていた。

その夜、キャラバンの面々は小さな焚き火を囲んで身を寄せ合う。吐く息がほんのりと白くなる寒さを紛らわすかのように、火の赤い揺らめきが人々の横顔を浮かび上がらせていた。まだ少年のあどけなさを残すサーリムが、火にかけた金属の小鍋をそっとかき回す。古い革袋から砕いた**乾燥ヨーグルト(カシュク)**を入れ、幾ばくかの水と少々のハーブを加えると、酸味を帯びた香りが夜気に溶けていく。

焚き火のそばでは、年老いたキャラバンの番頭が**乾燥肉(パスティルマ)**を薄切りにし、炙り網の上でひっくり返していた。塩と香辛料が焦げる香ばしい匂いが、冷たい風と入り交じって鼻をくすぐる。疲労のにじむ瞳を細め、商人たちはその様子を待ちわびる。
「やっと一日の終わりが来たな」
誰かがほっと息をついた。日の出から砂漠を歩き続け、体は砂と汗にまみれている。それでも、こうして温かな食事を口にできる瞬間だけは、ほのかな幸福が胸を満たした。

サーリムの鍋からはとろりとしたスープがこぼれそうなほど湯気を立てる。乾燥ヨーグルトとわずかな野菜くずで作ったその即席のスープを、硬くなった薄焼きパンで拭うようにして味わえば、冷え切った体がゆっくりと温もっていく。無骨な塩気の肉と、優しい酸味のスープ。その素朴な味が、異国へと渡っていく夜道の寂しさをほんの少し和らげてくれた。

食後には、**圧縮したデーツ(ナツメヤシの実)**が各人に手渡される。しっとりとした甘さが口の中いっぱいに広がり、硬いパンばかりに慣れた舌を慰める。星空を見上げて思わず笑みをこぼす者もいる。遠い故郷を想いながら、一つひとつかみしめるようにデーツをかじる音が、時おりキャンプの静寂を破る。

火の色が徐々に弱まり、明日の出発に備えて人々が思い思いに毛布にくるまる頃、砂漠の冷え込みはさらに厳しさを増していく。だが、強く吹く夜風を感じながらも、旅の仲間たちと分かち合ったささやかな夕餉(ゆうげ)の温もりが、それぞれの胸の奥に残っていた。柔らかな焚き火の明かり、酸味の効いたスープの香り、塩気のあるパスティルマの味わい、そして砂丘を越えても変わらぬ満天の星空。こうしてキャラバンは、無言の連帯感とともに新しい一夜を迎えるのだった。

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