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理念でつながる世界 (vol.3 / friend)

友達だったかもしれない


「友達ではありませんか?」

しばらく開いていなかったSNSにアクセスしてみたら見覚えのある名前が表示された。小学校が一緒だったそいつとは、友達かと言われれば友達かもしれないが、もう何年も会っていないし、特別に仲が良かったわけでもない。「友達だったかもしれません」という答えが適切だろうか。

代表取締役という肩書が気になってプロフィールを開いてみる。出身校の欄には自分が第一志望だった大学名が、以前の勤務先には起業家を輩出する企業として有名な会社名が書かれていた。腕を組み、豪快に笑った写真の下には「友達はいらない、仲間をつくろう」という言葉があった。彼の会社のスローガンだろうか。

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そう言われてしまっては、友達申請なんて送れない。そもそも友達って申請してなるものだったっけ。このアプリを使い始めたときは疎遠となっていた友人と繋がれることを純粋に楽しんでいた。これがきっかけで「久しぶりだね。飲みにいこう」となったこともある。連絡を取り合わなくても近況を知れる。久しぶりに会っても久しぶりな感じがしない。離れることにあまり抵抗がなくなった。

だけど最近は、友達たちの投稿を見るたびにストレスや違和感を感じるようになってしまった。発信する場が増え、ネット上でもTPOの使い分けがマナーとして求められる。建前を見せられたところで、素直に友達としては「いいね」と思えないし面白くもない。卑屈になる自分もいやだった。  


友達の定義

「友達、少なそうですね」久しぶりにアプリを開いたのは、今年入社した会社の女性に言われた一言からだった。たしかに自分は宴会部長というキャラではないが、どこからそんなことを感じられてしまったのだろう。

「そんなことないよ」という虚勢を飲み込んで、「友達ってなんだろね」と我ながらめんどくさい返しをしてみる。そんなことを聞くから、友達少なそうと思われるんだろう。ただ、なんとなく彼女たちの世代と自分では友達の意味合いが違う気がした。

” 勤務、学校あるいは志などを共にしていて、同等の相手として交わっている人。友人。互いに心を許し合って、対等に交わっている人。 ”

「ということらしいですよ」。答える代わりに彼女がスマホの画面を見せてきた。世代は違っても共通の答えは検索エンジンの中にあるらしい。「へー」と言いながら友達の定義なんて考えることもなかったときを思い出す。

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新卒で入社した数年は「勤務先の友達」と呼べる同期がたくさんいた。「友達じゃないんだぞ」と上司に言われるくらい仲が良かったけれど、その同期たちも今は残っているほうが少ない。「同期会」と称して集まることもあったが、結婚したり子供ができたり転勤したり、疎遠になった。たまに会っても、家族やお金の話題を避けながらの会話は疲れてしまう。

転職した今の会社では、同僚と呼べる人はいなくもないが、基本的には組織の中で上か下でつながっている。「対等な関係」を目指してはいても、同等とは言い難い。「何がしたいか」なんて考えなくても毎日楽しかった頃は誰とでも仲良くなれたのに。自分の価値観が定まってきて、必要なもの、必要でないものがはっきりしていくことは良いことだと思っていた。付き合う価値のある人と交わす価値のある話。だけど不思議なことに、何年経っても記
憶にあるのは、何を話したかは覚えていないが楽しかったということだけは覚えている、という時間だ。

そんなことを考えていたら、無性にどうでもいい話がしたくなった。そんな相手をどうやって探せばいいんだろう。草野球チームにでも入ればいんだろうか。目的も結果も求めない出会いが欲しかった。そんな相手を思い出してみようとアプリを開いてみたが、気軽に誘えそうなやつはいなかった。


友達なんて

翌日、「友達少なそうですね」といった女性が休憩室で動画を見ながらクスクス笑っていた。気になって何を見てるのか話しかけると「アーカイブなんですけど、超くだらなくて。気分転換にいいですよ」と教えてくれた。”くだらないオンラインバー”、彼女がみていた先週のテーマは「お酒にまつわる失敗談」だった。

「友達多い方?」ちなみに、と聞いてみる。あぁ昨日の話ですか、うーんと言いながら「各分野にひとりくらいですかね」という返事が返ってきた。各分野というのがよくわからないが、そのくらいでいいんじゃないですか、友達なんて。と付け足された言葉にどこかほっとして「ありがとう」と返した。

帰りがけに教えてもらった(”くだらないオンラインバー”の)SNSアカウントを調べてみると、「今晩は21時からライブ配信します」と書かれていた。「くだらない話」に興味が惹かれた。21時少し過ぎて様子をのぞいてみた。

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今夜のお題は、「学生時代のあるある」というものだった。すでに色々な人が書き込みをしている。視聴者から生電話がかかってくることもある。マス
ターらしき人が、話を聞いたりコメントを拾ったりしながらツッコミを入れている。その言葉が切れ味抜群なのにあたたかかく、笑いを二重にも三重にもした。

さすがに初参加で電話をかける勇気はなかったけれど、自分もチャットで会話に参加してみる。すぐにたくさんのリアクションがつく。あのころは必死だったけど、今から思うとくだらないことがたくさんあったよな、と自分の学生時代を思い出す。安い酒とつまみで朝まで笑える友達がいた。


友達との再会

「また次回~」と予定通り1時間でオンラインバーは終了した。視聴者参加型のテレビのバラエティ番組みたいだなと思った。「一般人」といえる参加者がみんな面白い。かしこいコメントより、よりくだらないネタの方がリアクションが集まる。

会社でいつも考える発言とは違った思考回路を使った気分だ。どんな人が参加していたのだろうと、それぞれのプロフィールをのぞいてる。「予期せぬ出会いは、自分の例外の中に。」犬のアイコンの下に書かれたある人の言葉が目に留まった。まさに、自分が今求めているような出会いだなと思った。

そのときタイムラインにそのアイコンからメッセージ流れてきた。「久しぶり。小学校が一緒だったんだけど、覚えてる?」というメッセージの最後に書かれた名前に一瞬、まさかと思う。昨日アプリで「友達ではないでか?」と表示された名前と同じだった。匿名のSNSに慣れていなかった自分は、本名と顔写真をそのまま表示してしまっていたらしく、それが彼の目に止まったらしい。「よければちょっと話そうよ」そのまま二次会がはじまった。


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友達、できたんだよね

「そういえばこの間、SNSで見かけたよ」というと、「あぁあれは仕事用だからさ、あまり気にしないで」と笑う声は意外と落ち着いたトーンだった。「おれも前に見つけたよ。”自分の規則に厳格に。自分の期待に柔軟に。”って言葉いいよね」。

ちょうど2年前に誰かと一緒に作った自分の<個人理念>をプロフィールに入れていた。彼が読んでいるなんて思っていなかったけれど、誰かに、特に予期していなかった人にいいと言われると嬉しくなってしまった。しばらく近況報告を交わした後、「ところでいつからあのオンラインナイトに参加してるの?」と聞いてみる。そんなものに参加するようなタイプには見えなかったからだ。少しの間のあとに実は、と返ってきた。

「半年前に鬱と診断されて…医者に、くだらない話ができる友達をつくりなさい、と言われたんだよね」それが、参加のきっかけだったという。友達はいらない、と笑う。あの写真からは想像できなかった。「薬とかより効果があって。あのバカになれる時間。」普段は、どうしても先のことを考え過ぎたり、真面目になり過ぎたりしてしまうらしい。”気分転換にいいですよ”、会社の子が勧めてくれた言葉を思い出した。

「昔はくだらない話しかしてなかったよな」なんと言っていいかわからず、そのまま思い出話に方向を切り替える。明るく活発な彼は自分とは違うタイプだと思っていたのであまり絡むことはなかった。「誰にも流されない感じで気になる存在だったよ」と、また意外なことを言われる。お互いはあまり接点のない学校生活だったけれど、今思い返すと意味のわからない校則や教師など、共通の話題は山ほどあった。

「また飲もうよ。くだらない話で」と日付が変わる前に通話を切った。あと30年くらいすれば、1周回ってまた誰とでも友達になれる気がしないでもない。だけど、今は、”各分野にそれぞれいればいいんじゃないですか” と彼女が言ったように、「どこかの部分で対等に」誰かとひっかかりあえればいいやと思った。昔のようになにもかもぴったりと合うことはないだろう。それでも、チェーンのように重なる部分があって、緩いような強固なフックができたらいい。そんなひっかかりに救われることがある。

「友達、できたんだよね」。明日、彼女にお礼とともに報告しよう。


文:高嶋 麻衣
絵:前田 真由美(innovation team dot

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