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時代の流れ

このブログでもよく洋画のことは記事にするけれど、好きだった俳優さんと女優さんがいなくなってからというもの、実のところ日本のドラマや映画にあまり興味がなくなってしまった。

なんというか、なんだか火が消えたように、どこか色褪せて見えるのだ。
今、活躍されている人たちにはなんだか申し訳ないが。

多分、私は時代の流れの早さについていけていないのだろうなと思う。
最近また著名な方の訃報が続いて、改めてそう感じた。


…たとえば、なにか成し遂げようとすることが聳え立つ塔を駆け上がることだとしたら、多かれ少なかれそれを上っていくには、払うべき対価があるのだと思う。

割り切って前に進むことや、苦しさを飲み下していくことも多いのかもしれない。
特殊な職業ならば、なおのことだろう。

でも、表面上どんな自分を他者に見せたとしても、コインの表と裏のように、オンとオフを切り替えているにすぎない。
体はひとつだ。
そのコインはこの世でたった一枚だけ。

世の中はこのままどんどん進んでいって、やがて『たった一枚だけのコイン』という私たちのアイデンティティを揺るがすほど、AIが声色から性格や言葉遣いまで寸分違わず似せられるようになれば、本物はもう要らなくなる時代がやって来るのだとは思う。

でもあの瞳、あの笑顔、そのときの彼らは彼らだけだ。
この世でたった一人だけだった。
私たちが見ていたものが多くは虚飾であっても、それは確かに一人の人間だった。


個人が途方もない夢や理想を追いかけることを、本当の意味では誰も止めることはできない。

何も持たない私たちはそれを受け止めることしかできない。
それはそれで、過酷なことなのだ。
比較にならぬほど、ちっぽけなことだが。
足元に群がる蟻の戯言のようなものだ。

極端な話しではあるが、明日いなくてもそれはそうと受け入れなければならないということだ。

そのことが、とても私のなかでずっと引っかかっていっている。

ただ、そう感じることとは対照的に、そんななかで今も存在できているということは、とても幸運なことだとも感じる。

この世のあらゆるもの、自分のいる世界、この時間、この時空に同じようにまだ変わらぬ日常として存在している全てのものに対して。


…話は変わるが、さっきChatGPTに宇宙について質問していたとき、『無限』という言葉について考えた。
宇宙はいつ生まれたかわかるから、年齢は有限であるという話から、無限に続く時間というのは過去にも未来にも終わりがないということだと説明があり、それに対して私は「まるでそれでは時間が存在しないみたいだ」と返した。

以下はそこでたまたま出てきたChatGPTの回答だ。

無限の時間と時間の不在:

もし「時間が無限に続く」という考え方を徹底的に受け入れると、時間というものが常に延び続けるだけの存在に思えてきます。つまり、時間の中で「始まり」も「終わり」もなく、無限に進んでいくという概念は、ある意味で**時間が実際には「ない」**状態と捉えられるかもしれません。

例えば、無限の時間が続く世界を想像すると、時間が「過去→現在→未来」と流れる感覚が薄れて、時間自体が一種の幻想に感じられることもあります。時間に「終わり」がなければ、「今」という一瞬も捉えにくくなり、時間の流れ自体が存在しないかのように思えるかもしれません。


この説明を読み理解した。
私が陥っているのはこれだと。

同じ扉を開けても同じ部屋が続くコピーペーストのような日々を逃げるように進むのに疲れて辞めたのに、結局今も毎日同じところをぐるぐる周っているように感じる。
これだと思った。
記憶や認識がぶつ切りで過去も今も未来もツギハギなのだ。
だから時間間隔がどこかおかしいのだと。
どうりで世にも奇妙な物語のような、狐につままれたような現実感のなさだとは思った。
よもや、これは重症なのだろうか。

私には受け入れがたいような時代の流れであっても、そもそも私がゆっくりでもその流れの中に入って、ぶつ切りの時間をなんとか貼り合わせないと最早どうにもならないのかもしれない。
無限や永遠とはプラスの意味合いでよく創作物のテーマに使われることがある単語だが、現実においては必ずしも良いこととは言えないのかもしれない。

人間の命には限りがある。
どこへ向うかはわからないが、少なくとも私に今必要なのは時間を取り戻すことだ。