ハクション大魔王セブン
「くしゃみ」っていかにもオノマトペって感じがする。「ハクション」が「くしゃみ」になったというのはけっこう想像しやすい。しかし事実は異なり、くしゃみは「くさめ」、さらには「くそはめ」に遡り、要は「クソくらえ」という罵り言葉が語源である(「食む」は「馬が草を食む」に見られる)。昔はくしゃみをすると早死にすると考えられていて、一種のおまじないだったようだ。
このように、馴染み深い単語に思いがけない由来があることはぱぱある、もといままある。九月は英語でセプテンバーだが、このセプテン、実はセブンと同語源である。しかし九と七では二つずれているではないか。これは古代ローマのユリウス・カエサルとアウグストゥスが、それぞれ自分の名を七月と八月に割り当てたため、九月以降二つずれているのだ。そういうわけで、オクトーバーはオクターブやオクトパスと語源が同じだし、ディッセンバーは十種競技のデカスロンと関係がある。
たしかにこのように語源は面白いものであるが、ある意味でどうでもいいものでもある。「くしゃみ」が「クソくらえ」だとして、あるいは「九月」が七だとして、それは話者にとって何ら関係のないことである。こういった割り切りのようなものが言語学では必要だ。
問題は、「割り切れない」ことがよくあるということだ。割り切れないということは、それが誤用であるということで、誤用も大多数の話者に受け入れられれば、めでたく言語変化完了ということになる。例えば、独壇場は独擅場が本来「正しい」カタチであった。壇と擅の漢字が非常に似ているため混同が起き、独壇場が「正しい」ことになってしまった。極端な言い方をすれば、誤用は未来の日本語である。
言語はじゃんけんみたいなものだ。グーは石、チョキはハサミ、パーは紙だというが、こういった「由来」はじゃんけんのルールに何も関与しない。グーはチョキに勝ち、チョキはパーに勝ち、パーはグーに勝つ──それが全てである。言語の仕組みを考えるときも、語源にとらわれてはならない。
そして「素材」もじゃんけんのルールに関わらない。手を用いるのが主流であるが、足を使っても、カードに描いても、声に出しても、どんなやり方でもじゃんけんはできる。じゃんけんにおいて、物質性は本質的ではない。グー・チョキ・パーがそれぞれ区別できれば、それで事足りるのだ。これは音声言語を文字で表すことができるというのと少し似ている。
こう考えると、言語もじゃんけんもなんだか抽象的なものという感じがする。
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