過去の自分(過去の行為)への憐れみ
第108話
昨日唐突に投稿した『理科基礎小鉢』
あれは、
記事に昇華することで「行為否定」を回避する
一つの例なんです。
↑こちらさらに一つ前の記事(第106話)。
前半は変態的なことを書いてるので
「こんな記事読むなってw」というタイトルなのですが、
後半は真面目な話してて、
そこで書いたのが「行為否定」の話。
で、その例となりそうな出来事がちょうど昨日あったので、
勢いで第107話を書いたのです。
昨日、私はミスをしました。
厳密に言うと、昨日よりも前の時点の自分のミス。
大過去の自分がある思い違いをしていたんです。
(その思い違いの内容は第107話を読んでください。)
で、昨日の私は間違いを認め、訂正をした。
でもね、
認めたくなかったんですよ。
過去の自分に悪いから
です。
ぶっちゃけ、すぐに認めることができる間違いだったんですよ。
でもね〜、
過去の自分の行為を否定することになっちゃう。
もっと言うと、過去の自分そのものを否定することに。
第106話では「生産性否定→行為否定」という話をしましたが、
「行為否定→存在否定」という流れも見えてきましたね。
私、
未来の自分には無関心なんですけど、
過去の自分は我が子のように(?)可愛がるんです。
そのせいで「後退史観」を持ってしまっている
っていう話はまたいつかします。
記事に昇華することで救われる。
これも第106話に書いたことです。
行為って、全てが成功・完成に繋がっているわけではない。
客観的視点から見た"無駄"があって当然です。
無駄なものは、油断してると存在を消されてしまいます。
(このへんは明日とかに詳しく書こうかな。)
無駄… 消される…
可哀想じゃないですか。
私はこういう気持ちになるんです。
なんなんでしょうね、この憐れみ。
他者への憐れみ。でも他者ではない。過去の自分。
自分のような他人のような。
今のこの自分とつながっているようないないような。
映像を想像するとキモいですねw
可哀想なので、
なんか救われないので、
記事に昇華するんです。
これで、行為そのものは消えません。
行為の生産性は肯定されませんけどね。
何も生まれなかったら「何も生まれなかったなぁ」と書けば良いんです。
(第106話コピペ)
〈まとめ〉
過去の自分(過去の行為)に対する憐れみの気持ちがあるので、
私にはnoteが必要!
以上です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。