はじめて考えるときのように
一風変わったアプローチで書いている本に興味を持った。先日、「16歳からのはじめてのゲーム理論」という本を読んだ。ネズミの親子の物語にゲーム理論の基礎知識を散りばめて、読者にゲーム理論の思考法を身につけてもらうという本。
ストーリー仕立てで書くアプローチ方法が気になっていたところ、「おわりに」でネタバラシしていただいた。「本書のような一風変わったアプローチで読者を学問の世界に誘うという試みがしっくりこられた場合はこの本をお勧めします」と記載されていたのが、今回のタイトルである「はじめて考えるときのように」の本であった。
本書は、「考える」ということを考える本。構成は6章あり、各章違った目線で「考える」ことを定義している。その中で心を揺さぶられた部分を書いていく。
①「考える」は、何かをしているときに、どうゆうつもりでしているかという意図。
例えば、渋谷に行くために電車に乗っている→渋谷に行くことを考えている。
②「考える」は、耳を澄ますこと、研ぎ澄ますこと。
何かを見てハッと驚き、考えていたことの回答が見つかるときがある。それはずっと考えることをしているのではない。いつか見つけるときのために感覚を研ぎ澄ますことが「考える」ということ。
③「考える」ことに特徴的な行為の型はない。歩く/走る/スキップしながらでも考えることはできるし、トイレ/風呂/車の中などどんな場所でも考えることはできる。
④「考える」は不自然。実際の言動とは違うことをしている。逆に、言動や外部刺激に反応する、「感じる」は自然なこと。
⑤「考える」は、新しい結びつき、新しい関係を探し求めること=型やぶり。でも型を学ばないと破ることはできない。自分が常識と思っていたこと、そうして見えない枠として自分をしばっていたこと、それを共有しないひとが現れる。それが変だと感じることで、自分があたりまえだと思っていたことを自覚する。見えない枠が見えるようになる。
⑥論理は「考える」をしないためにある。論理とは、前提から結論を導く道筋のこと。前提と結論それ自体の正しさは論理の正しさとは別。
⑦「考える」は、現実から身を引き離すことを必要。現実からいったん離陸して可能性へと舞い上がり、再び現実へと着地する。そのための翼がことば。可能性を可能にするにはことばが必要だ。
改めて読むと、①〜④では「考える」は自分の頭の中の行為ではないことを伝えている。何かが起きたことの反応は「感じる」ということ。感じたことが自分の中の常識でないとき、「考える」の権利が与えられる。→⑤
⑥の論理と⑦のことばを使って、頭の外へ離し、戻す。離陸させて着陸する。その繰り返しでブラッシュアップされる。それが「考える」という行為だと思った。
内容をまとめてみると、非常に堅い教科書的な文章になってしまった。実際は、笑いとホッコリが散りばめられていて、終始頭痛に悩まされることなく読むことができる。そういった余剰の部分があるのは、何かを考えるときと似ている。著者のようにそのまま書き出すのは高度な技術のように思う。そのようにして新鮮なまま頭の外で考えることが「はじめて考えるときのように考える」ことだと思った。
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