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体重を「身長ー100」Kgまで落としたら、落としたKg×1000円、所得税免除します

 政府からの突然の提案。
 成人を迎えた者は、その年の健康診断にて測定された現在体重を申告し、それから1年後に再び測定。測定時にタイトルの要件を満たしていたら、その分だけ所得税を免除。尚、これについては報告された現在体重を健康診断において更新し続けることで、常に「身長ー100」Kgまでの体重低下についてその度に、所得税を免除し続ける。
 但し、前年度に対して体重が増加した場合、追徴課税を行うものとする。
 さて、このような政策、あなたは賛成しますか?

 この提案は「生活習慣病の改善」を一国単位で行うための施策である。太っていれば太っているほど、ダイエットに対する金銭的インセンティブが得られるので、有効である。「身長-100」Kgまでと制限してあるので、過度なダイエットまでは向かない。

 しかし、この政策は、成功しませんでした。
 なぜなら、最も健康に気をつけなければならない成長期の子どもたちが、わずかな所得税免除のために成人前に過食するというインセンティブを得てしまったことが一つ。
 身長の低い人、既に適正体重だった人に対して不利な政策だったことにより「デブ優遇」と指摘され、政策が糾弾されたことが一つ。
 「生活習慣病の改善」を謳った政策は、金銭的インセンティブによって不公平感が出てしまい、結果立ち行かなくなったのでした。

 と言う、思考実験でした。


我々の選択は、どこからきたのか。

 今、『ナッジ!?自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』という本を読んでいます。

 まずはサンスティーンによるナッジの定義を確認することからはじめよう。彼はナッジを「いかなる選択肢も禁止することなく、人々の経済的インセンティブを大きく変更することなく、人びとの行動を予測可能な仕方で変更するあらゆる側面の選択アーキテクチャ」[Thaler and Sunstein 2008]として定義している。

ナッジ!?自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム 第1章 p27

 上記の思考実験は、経済的インセンティブを大きく変更しているという点において、ナッジではありません。ただし、第1章の筆者は、生活習慣を変える第一歩としての経済的インセンティブは軽視すべきではない、と述べます。
 初めの一歩を踏み出すのは意思が必要です。そして、その意思を行動に移すための動機として経済的インセンティブやナッジは有効ですよね、という話です。

 私の思考実験はさておき。
 第1章で取り上げられている事例は、アメリカの肥満問題です。私が興味を惹かれたのは、ナッジそのものではなく、肥満問題の原因についてです。

 肥満には様々な原因となる要因があります。「倹約遺伝子仮説」、社会的な環境・格差、習慣による個人の選択。

 私が特に目を惹かれたのは「習慣による個人の選択」という要因。

 例えば、私たちは、常に食事について選択をしています。自炊か中食か外食か、食べるものは和食か中華か洋食か、どれだけ食べるか、等々……。
 考え出したらキリがないものを、私たちは何となく、何を食べたいか、で熟慮したりせずに日々決めています。それこそが習慣です。

 今日は何かファストフードが良いから、マックでハンバーガーにしよう。
 今日は牛丼の気分だから吉野家で牛丼食べよう。
 自炊したいけど、仕事で疲れてるし、半額総菜でメンチカツにしよう。
 疲れてどうしようもないから、ビール飲んでさっさと寝よう。
 金曜日の夜は友人と飲みに行く約束だったな。
 休みの日は日頃の疲れを労って、自宅で晩酌パーティーだ!

 これら日々の選択は、一つ一つは決して有害なものではありません
 ですが、これらが継続的に選択され、積み重なることで、私たちはある「病」を招くことになります。


 それが、「生活習慣病」です。


 この本を読むまで、私は知識として「生活習慣病」というものを理解していました。日々の習慣が人をデブらせて、様々な病気の引き金となる奴でしょ、知ってる知ってる。くらいの感覚でした。

 ですが、朝活や日々の積み重ねとしての運動をしている今、改めて眼前に「悪しき選択、積み重ね、習慣の結果としての生活習慣病」という現実を提示されて、私は愕然としました。

 「言葉」でなく「心」で理解できた。

 ペッシの気持ちになりましたね。
 恐ろしいことです。私たちは、日々何気ない選択を繰り返しています。私の性向は、私の選択によって決まるものです。そしてそれは習慣化していきます。

 習慣というのは、行動経済学における「深く考えない自分」としてのシステム1に基づきます。そこには多分にバイアスの入り込む余地があり、そして深く考えずに選択するシステムは、簡単に外部環境のハッキングによって、その選択を変更させられてしまいます。
 あたかもそれを選択したのが自分であるかのように。

 習慣による個人の選択は、バイアスの入り込む余地があり、それによって無自覚に選択を変更させられる。それを良い方向に利用したのがナッジなのですが、世の中にはそれとは別に、悪い方向、依存する方向へと無自覚に変更させられるものもあります。
 それをスラッジ(負のナッジ)と言うそうです。

 分かりやすいもので言うと、スマホで見るブログ記事についた多量のバナー、あるいは「次へ」を押そうとするとそこにフラリと移動して無理やりタップさせようとする広告などが当てはまるでしょう。

 それは経済学的には短期の利益を生む合理性の結果ではありますが、デザインとしてははっきり失敗と言えます。そのように、利用者に不利益を生じさせるものがスラッジです。
 そのようなスラッジ溢れる社会の中で、習慣として行われる様々な選択は「よく考える自分」としてのシステム2ではなく、「深く考えない自分」としてのシステム1、ハックされやすいシステムによってなされる訳です。

 そのような状態で、良い習慣が自然と身につくはずがありません。
 「生活習慣病」は、その病根がとても根深いものなのだと、改めて理解しました。正しく、習慣の病なのです。


たった一つの間違いの道より、星の数ほどの正解の道

 習慣の病は、社会に存在する様々なスラッジ、あるいはその根底にある社会のシステムの問題のようだと思います。
 習慣を変えるには、「変える必要がある」という危機意識が必要で、今の生活に満足していれば、変えることはできません。そして大体の場合、人は現状の生活を変えることを望みません。システム1をハックする現状維持バイアスというものがあるからです。

 人は、危機を感じない限り現状を肯定することに創造力を働かせます。
 ですが、習慣の病は、気付かないうちに様々な場所に根を張ります。

 スマホ依存、SNS依存、ポルノ依存なども、広義においては習慣の病と言えるでしょう。
 繰り返しますが、一つ一つは日々の選択において有害ではないのです。
 それが継続的に選択され、積み重なることで「生活習慣病」と言うまでになってしまうのです。依存状態にまで陥ってしまう時点で、私たちは習慣の病に罹っています。それを危機とみなして、根治しなければなりません。

 現代社会、間違いの道は様々な場所から誘い込みます。ですが、その誘因の道は、一級河川となって海に流れ出るように、一つの大きな道になっていきます。
 それは依存の道。生活習慣の病への道です。

 ですが、そこに危機感をもって、自分の習慣を見直し、自分が何に重きを置いているかをはっきりさせ、人生の目的を定めた時、私たちは真に習慣を良いものにすることができ、そしてそれぞれの自己実現が達成されるのではないかと思います。

 間違いの道は善意で舗装されています。
 ですが、その舗装された道が本当に自分の目的地へと続いているかは、一度立ち止まって考える必要があるでしょう。もし、自分の目的地が、舗装された道の先にないのであれば、自分で開拓するしかありません。
 人の数ほどに、道はあるのだと思います。


 自分で開拓するためのツールとして、読書はとてもいいものです。
 先人の知恵は、もしかしたら私たちのゴールを先に目指しているかもしれません。そのツールが、私たちのゴールまでの開拓をかなり楽にしてくれるものかもしれませんからね。

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