随筆と言いたいところだが、そういったことに胸を張って言えるような文芸の学はないのでまずここには覚書として記述していくことにする。 Facebookを用いてこの随筆のようなことを書き始めていこうと思っていたところ、このnoteを紹介された。せっかく始めるのなら後から見返す機能などもありそうなこちらで始めた方が気分の一新にもなるだろう。 今回は「覚書として記述していくことにする」としたが、随筆を書く上で、青空文庫で寺田虎彦の「随筆難」をさらう程度に読んでみた。 そこには冒頭に「随
今日事務手続きをして、大学の授業後にそのまま教室を借りて「ベルリン・天使の詩」を見返した。 初めて見た時はピーター・フォークというか、刑事コロンボ自体を知らなかった。映画公開時期がそもそも俺が生まれてない、ギリギリ姉貴が生まれてるぐらいの時期ではあるんだけども。 WOWOWか何かで断片的に観た作品だった。その中でブルーノ・ガンツが天使像の横にいるパッケージの絵が強く印象に残っていたそれだけだったのだけども。 其処から中学・高校でショップに行くたびにDVDを探してて、どんなタイ
そろそろ春休みが終わって新年度、学年が上がるわけだけど。 その前に31日締め切りの課題が全く進んでない。ざっくり進捗を出すと32%半分も終わってないのは正直頭を抱える。 それと同時に20年以上前に指導を賜った合気道の恩師に再会してきた。 覚えてること、忘れてること、覚えてるけど身に付いてないこと手始め程度に再度教わることにした。 そもそも当時は段位を取る前に離れてしまっていたので、身に付いて無いことが多いのは当然。 最近の自己修練ではそもそもマットもない場所での手順の稽古のよ
今日初バイトであったが接客業の対応はある程度は、地盤がある分楽であった。 もちろんここからさらに覚えるものが増えていくわけだが、とにかくまずは順調な滑り出しか。 こういったことへの記述も明日書ければ行おう。
昨日の随筆で精神を凌駕する習慣という怪物をと言ったばかりだが、ここ数日とても体調が芳しくない。 芳しくないからと言って筆を取らぬは結局習慣に慣れないので、少しでも記述していく。 体調が悪くても続けれる、忙しくても続けられるなら胸を張って習慣と言えるだろう。 特段今日は何を書こうということも考え付かないので、もうここで終わってもいいのではなどと思ってしまってもいる。と思ってたらここまで書いて寝落ちしてしまった。
精神を凌駕出来るのは何か? 三島由紀夫曰く、習慣である。 「精神を凌駕することのできるのは、習慣という名の怪物である」だ。 習慣というものは人間一人一人の根幹である。 使う言語も習慣によって私なら日本語であり、ここで記述する時は一人称は私だ。友と話す時は俺というし、かしこまった場では私を用いる。 これが習慣として私の身に住み着いている怪物である。 精神とは怠惰であったり根性であったり、浮き沈みする物なのであるが、習慣はここに無意識という名の楔で突き刺さる。 習慣化することによ
マリリン・モンローと並ぶセックス・シンボルと言われ、26歳の若さでこの世を去った女優、ジーン・ハーロウの映画が観たい。 いくつか(民衆の敵とか)はAmazon プライムビデオにあるのだが「プラチナ・ブロンド」などは扱いがない。 彼女らのスター性はしばしば「頭が悪い金髪女」のイメージの元になったとされる。 ハワード・ホークスの「紳士は金髪がお好き」に登場するマリリン・モンロー演じるローレライ・リーは確かに感情的に、わがままに振る舞いおバカな金髪女の像に相違ないだろうが、黒髪でロ
飽くなき探求心とか向上心を失ったらおしまいだなんて言葉を聞くことがあるが、慣用句にも「志は満たすべからず」というものがある。 望むものは100%叶えようとしてはいけない、すべてを叶えようとすると身を滅ぼす。という意味なので、まったく同じ意味合いではないのだが、欲に身を任せ過ぎてはならないというのは確かにである。 人間の欲望というものは様々な社会問題はもちろん、創作物にもよく描かれている。 しかし、人間の欲望によって文明は発展してきたという事実は変えられない。 何事もバランスだ
FPSというジャンルのゲームがある。 first person shooting、一人称視点射撃ゲームである。 近年では少人数でチームを組み対戦する物や大多数の人間たちの中で最後の一人になることを目指すサバイバルのようなものがある。 これらは私は基本的にやることがない。大前提として格闘ゲームなどの対人戦のゲームが苦手だ。 ここで私が言うFPSはホラーゲームやパズルゲームの類である。本来ならshootingではないので、FPH(first person horror)やFPP(
昨晩、体調が優れず30分休むといってそのまま気付けば3:45頃に目が覚めた。 当然日課として0:00を回ったら取り掛かるとしていたこの随筆という名の散文執筆作業を行うことが出来なかった。 別段義務として書いているわけではないし、書かずとも良いのだが、一度このような形とは言え妥協が入ると人間そこに隙が生まれるものである。 実際もっと早くの時間に書けたはずであるが、図書館に行くだとか作業をしていたらこの時間だ。 というわけで、今この時間にとにかく書かなければと指を動かしている。
恋愛という部分の話がどうも多すぎるような気がして、お前はそればかりなのか! と自罰的な声がするのだが、このまま今日は続行する。 ホラーと恋愛というのは色々と相性が良いという話は聞いたことがあるだろうか。 ホラーを恐怖と置き換えた方が適切かもしれない。 シャクターの情動二要因論やジェームズ=ランゲ説など肉体と精神の関係性の研究は歴史的にもある。最も有名なのはつり橋効果だろう。 しかしながら本日ここに記したいのは恐怖感情と恋愛感情のすり替えといった話ではない。 作品表現の中で恋愛
あまり聞かない慣用句であるが、独楽の舞倒れという言葉がある。 今の社会、これに近い状態にある人々が多く、別名社畜と言われる。 独楽の舞倒れの意味を説明すれば、一人で限界まで頑張って力尽きて努力が無駄になるという意味だ。 現在大学では実習が始まり、ここからグループワークが本格的になってくる。もちろん勤勉に学ぶ姿勢を取ることが重要であるのだが、全員が全員そうあれるわけではない。 私自身いつ気持ちの上がり下がりでつぶれてしまうかわからない不安を抱えているので、無理のない範囲で出来る
ゲーテ、寺山修司、コミュニケーションの話をつらつらと記述してきたが、ここでざっくりと共通する事に恋愛という要素がある。 そこで今日は三島由紀夫の新恋愛講座に記述されていることに寄せて書いてみたいと思う。と言ってもまだふんわりと呼んでいる途中の事なので第一講の内容にとどめておく。 ここでは日本と西洋では恋愛に対する考え方の違いが記されていた。まず恋慕の情がある。誰かが好きだという気持ちが先にあった上で、ギリシアなどでは哲学が合わさり愛するとは何なのかと考えられていくことになる。
ドキュメンタリーを制作する上で、誰にインタビューし、何を訊き、何を掘り下げていくか。ということをする上で他人との協力は必要不可欠だ。 そしてそれを成すにはプレゼンテーションを行い魅力を伝えることだ。 どんな魅力がある事柄・人物であるかは「興味関心」が掻き立てられるか、という事でもある。 ここで問題なのが、プレゼンテーションで自分自身が「興味関心」を持ったことをどうすれば他人に伝える事が出来るかだ。 企画書の記述もそうだが「こう書けば伝わる」というものでもない。そもそも興味の方
ゲーテの作品に「若きヴェルテルの悩み」と言う作品がある。 この作品に共感して自殺した若者が多く出たほどで、精神的インフルエンザなどと言われたこともあるそうだ。 寺山修司はさかさま世界史英雄伝の中で「自己中心の愛だ」として「愛は相手との合作であることを忘れてはいないか」と述べている。 確かに寺山修司の言葉に私も同意するところだ。 しかしこの作品が今もなお読まれ、精神的インフルエンザと言われ自殺者が出るほどの共感を読んだのも事実。 エッカーマンのゲーテとの対話の中でゲーテが「『ヴ
大学の講義にて「コミュニケーション」について色々と考えさせられることが多かった。 グループワークの発表の中でも「コミュ障」には二種類あるという話も上がっていた。 彼らの発表では「自己主張の強いタイプ」と「自己主張の弱いタイプ」が居るというものもあった。 ここで自己主張の強いタイプと弱いタイプに共通して、コミュニケーション障がいと思われる人物の共通項を一つ提示してみたい。 それは「笑顔を見せることが少ない」ということである。 私は笑い上戸かというほどよく笑う人間である。自分でも